蓮如布教の地〜 越前 吉崎御坊
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 城郭の概要
所在地:あわら市吉崎1-302
別 名 : −
築 城 : −
初城主: −
区 分 :平山城
遺 構 :空掘,土塁
城 域 : −
     比高 約40m

 現地への案内
交通機関は車を利用
 国道305号線、吉前町
 詳細位置はコチラ mapfan
 駐車場
 吉崎御坊の駐車場を利用
約100台駐車可

【訪 城】2004年8月,2007年3月
【撮 影】2004年8月,2007年3月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

御山
御山の削平地

 現地の状況
 吉崎御坊(吉崎別院)は浄土宗中興の祖・第八世蓮如が、文明3年(1471)7月に道場を開き、布教活動を開始したことに始まる。
 吉崎の地は越前と加賀の国境付近にあり、東に大聖寺川が流れ、北の背後には日本海と通じる北潟湖を配した丘陵地形で、城郭築城の選地で言うなれば、後ろ堅固の要害地形である。

 現在の吉崎は北側に国道305号線が走り、当時吉崎御坊のあった御山と称する比高40〜50m小高い山に登るには、西本願寺と東本願寺の別院の間にある細い路地から登る。
 西本願寺と東本願寺の別院が軒を並べるのは少し異様な感じがするが、いずれにとっても蓮如は浄土真宗中興の祖であり、どちらかが欠けている方が異様かもしれない。

 御山は広い削平地の中に、蓮如上人像が建てられ、本堂跡などが残る。御山の南は丘陵地が広がり、土塁による平虎口と堀跡を確認することができる。


 城郭の歴史
 吉崎御坊は文明3年(1471)7月、本願寺第八世蓮如が越前と加賀国境付近に開いた道場で、布教の拠点である。

 文明6年(1474)応仁・文明の乱が起きると、加賀国は東軍に属した富樫政親と西軍に属した富樫幸千代の兄弟による政権争いへと発展した。
 争いを避けようとする蓮如の意志に反して、本願寺の門徒達は富樫政親と共に専修寺門徒や富樫幸千代と戦う等、次第に過激化していった。

 文明7年、蓮如が吉崎を去った後、門徒は一向一揆衆と化し、戦国時代の一大武装集団となって、長享2年(1488)には高尾城に富樫政親を攻めて自害に追い込んだ。
 この時から加賀の国人,坊主,百姓等による加賀一国支配が始まり、約100年にわたって支配することになる。

 永正3年(1506)3月加賀一向一揆は越前の一向衆と呼応し、30万余という大軍をもって越前に攻め込んだが、九頭竜川の戦いで朝倉氏10代当主孝景(宗滴)率いる1万1千の寡兵に敗れた。
 勝利に乗じて加賀に攻め込んだ朝倉孝景(宗滴)は吉崎御坊と共に本覚寺、および藤島超勝寺などを打ち壊した。この打ち壊しによって吉崎御坊は廃坊となった。

 享禄4年(1531)一向一揆衆は金沢御堂(現金沢城の地)を建て本拠を移した。
天正6年(1578年)3月織田信長の家臣・柴田勝家、佐々成政、前田利家等が加賀に進攻、天正8年(1580)4月には金沢御堂は織田軍によって攻め落とされ、本願寺による加賀支配は終わりを告げた。
西本願寺別院
西本願寺別院

東本願寺別院
東本願寺別院
 



観 光
蓮如上人記念館
あわら市吉前町
大人 500円

蓮如上人記念館

瀧谷寺(だんじきじ)
福井県坂井郡三国町滝谷1丁目
TEL 0776-82-0216
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 北陸屈指の名刹、永和元年(1375年)に創建された三国町最古の寺院です。真言宗智山派の瀧谷寺は戦国時代に越前の国を治めた朝倉氏や柴田氏の厚い信仰を受け栄えた。
柴田勝家がお市の方を妻に迎えたおりに寄進したという鐘楼門も、今も当時のままの姿で残っている。
 また、宝物殿には国宝の金銅宝相華文磬、重要文化財の絹本著色地蔵菩薩像などが所蔵されている。


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