豊原寺(豊原城)
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 城郭の概要
所在地:坂井市丸岡町豊原
別 名 : −
築 城 :大宝2年(702)
初城主:秦澄大師か
区 分 :平山城
遺 構 :石垣,坊舎
城 域 :4,000m×4,000m


 現地への案内
交通機関は車を利用

 詳細位置はコチラ mapfan
 駐車場
 空地を利用
【訪 城】2007年4月
【撮 影】2007年4月

評価項目 見所評価
選地
縄張り ☆☆
普請 ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

豊原寺跡
白山豊原寺跡

 現地の状況
 豊原寺へは丸岡町田屋から標識に従って林道を約1.5kmほど走ると地蔵堂に着く。地蔵堂から直進すれば、西の宮城跡、歴代院主の墓、経塚に至る。また地蔵堂から左の道を進めば、華蔵院跡、白山神社に至る。

 白山神社の途中の平場が豊原寺の中心地と推定される。織田信長が陣所とし、柴田勝豊が豊原城を築城したのは、この平場ではなかったか。

 豊原寺一帯を廻ってみたが、豊原寺の跡地はなかった。おそらく豊原寺という寺はなく、豊原三千坊をさして“豊原寺”というのではないだろうか。
 また、豊原には西の宮城を含め3つの城があったといわれているが、中核部の平場に豊原城があったとすれば、もうひとつ西の宮城に対する「東の宮城」と存在が考えられる。
東の宮城とはどこか?
坊跡の石垣
坊跡の石垣


西の宮城
西の宮城跡

 城郭の歴史
 平泉寺と共に天台宗白山宗徒の信仰の拠点であったが、勢力の拡大と共に中世には豊原城として、戦略あるいは政治的な地位を築いていった。

 延元年間(1336〜1340)南北朝の乱には斯波氏を助勢し、その恩賞として西長田,小森保,栗田島の地頭職を加えた。
 戦国時代以降は度重なる戦いに平泉寺と共に越前僧兵の精鋭として活躍し、「豊原千坊,小野千坊,吉谷千坊合わせて三千坊」と云われ、その勢いを誇った。

 天正2年(1574)の本願寺一向一揆に際しては、その総帥下間頼照が本拠とし、翌3年には織田信長が一向一揆殲滅の陣所とし、信長が北庄城へ出る際に全山数百の坊を焼き払い灰燼に帰した。
 同年、柴田勝豊が豊原城を築城し、伽藍の再建が図られ東得坊,西得坊などが再建されたが、翌4年には丸岡城が築かれ、これに伴い寺院、住民も移り豊原は休息に衰退した。



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