岡崎山砦
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 城郭の概要
所在地:敦賀市杉津岡崎山
別 名 :大ケ崎城,大比田城
築 城 :元亀元年(1570)か
初城主:朝倉掃部介景氏か
区 分 :山城
遺 構 :堅堀,土塁(?)
城 域 : −
     標高 70m
     比高 70m

 現地への案内
交通機関は車を利用
 
 詳細位置はコチラ mapfan
 駐車場
空地に駐車
【訪 城】2007年6月
【撮 影】2007年6月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


越前一向一揆についての詳細はコチラを参照。

南西ピーク付近の地形
南西ピーク付近の地形

 現地の状況
 岡崎山砦は敦賀湾の東海岸に突出した東浦の杉津の岡崎山一帯を城域としている。岡崎山は3つのピークからなる80mほどの独立丘であるが、三方を海に囲まれた要害地形をなしている。

 標高100m足らずの小山であるが、周囲は切り立った斜面でどこからでも登るというわけにはいかない。登城道は杉津の集落を抜け、海側に直進する道を突き当たった墓地横にある。
幅5mほどもある道は登るに従い細くなり、斜度もきつくなって九十九折りに登ると10分足らずで尾根の鞍部に出る。
 城郭遺構はこの鞍部から北東の尾根筋、および南西のピーク付近にあるが、折しも時期は6月で下草が激しく密生し道を阻む。城郭遺構は南西のピークに連なる尾根筋に集中しているようで迷わず、南西の尾根を登る。

 尾根道が敦賀湾に落ち込む崖状地形に出ると下草も少なくなり、海側斜面に石積みが見られる。崖状地形のため近くに寄って見ることも出来ず、当時のものか後年のものか判断できなかった。
 一見山を切り開いて造ったような道が続き、右手は崖状斜面、左手には曲輪らしき地形が続くがほとんど削平されておらず曲輪とは言い難い。

 結局こうした地形が下山道まで続き、道そのものが曲輪として使われていたのか、それとも道は後年につけられたものなのか、砦遺構はどこだったのか疑問を抱いたまま、岡崎山東側の海岸へ下山した。

 岡崎山砦の場合、元亀元年の朝倉勢、および天正3年の一揆勢と立て籠もってはいるが、鉢伏山城や木ノ芽城のように城塞としての築造はほとんどなされず、自然の要害地形を利用して一時的に使われていたような印象を受けた。


 城郭の歴史
 「東遷基業」によると、織田信長の元亀元年(1570)の越前攻略の際、朝倉義景は大比田城に朝倉掃部介景氏を八百余の勢力と共に派遣し、城を固めさせたとあり、この大比田城が岡崎山砦と比定されている。

 天正元年(1573)越前は朝倉氏を滅ぼした織田信長によって平定されるが、翌天正2年(1574)蜂起した一揆衆によって越前支配を任されていた旧朝倉家臣の前波播磨守吉継(桂田播磨守長俊)は殺され、織田軍は越前から撤退を余儀なくされる。こうして越前は加賀一向一揆の領国となった。

 天正3年(1757)再び越前支配を狙う信長に対し、一向一揆衆は総大将・下間頼照が燧ケ城に入り、江越国境の板取城には下間頼俊、木ノ芽峠城には西光寺勢力、鉢伏山城には阿波賀三郎兄弟、そして岡崎山砦には猪鹿子孫左衛門が入り守りを固めた。

 しかし、10万余の大軍をもって攻めかかる織田軍の前に杉津城をはじめ鉢伏山城、木ノ芽峠城などの諸城は次々に落城し、この岡崎山砦も落城した。

崖状斜面を土止めしている石積み
崖状斜面を土止めしている石積み



近隣の観光
板取宿
 板取は栃ノ木峠から今庄に抜ける北国街道の難所であったが、天正6年(1587)越前北之庄に封ぜられた柴田勝家が安土城まで最短の道として北国街道の難所を整備した。この道は軍道として使えるように幅3間の広さがあったという。

 板取地区は以後宿場町として栄え、現在も「妻入り甲造り型民家」が数件残っている。
 なお、関所跡も残っており、自然の中を散策するのもよい。



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