若狭国吉城
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 城郭の概要
所在地:三方郡美浜町佐柿
別 名 : −
築 城 :天文年間(1532〜1555)
初城主:栗屋越中守勝久
区 分 :山城
遺 構 :石垣,曲輪,堀切
城 域 :260m×220m
     標高192m
     比高 約80m
町指定史跡


 現地への案内
交通機関は車を利用
 
 詳細位置はコチラ mapfan
 駐車場
 徳賞寺近くの道路に路上駐車
【訪 城】2007年5月
【撮 影】2007年5月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ★★★
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

堀切
主曲輪と二の曲輪間の堀切

 現地の状況
 国吉城は通称城山と称する標高197mの山頂に主曲輪を配し、北西の尾根筋に曲輪を配した連郭式の縄張りをした中世山城である。

 城山の西側山麓のある佐柿陣屋,栗屋勝久館から山に入り、約30分で出丸を経て城域のほぼ中心部である二の曲輪に出る。
二の曲輪からは堀切を介して主曲輪虎口に至る。虎口は平虎口で両側に低土塁とこぶし大の石が散乱しており、土止めの石積みがあったことを窺わせる。
 主曲輪は最大幅約40mの三角形で、南東側には約1mの高低差のある櫓台を設け、背後は堀切で処理している。
 二の曲輪の北西側に連なる曲輪群は高低差のある切岸で処理しただけであるが、削平状態は極めて良い。

 主曲輪からは若狭湾と丹後街道(現国道27号線)を眼下に望むことができる。眺望のすばらしさと共に、手入れの行き届いた中世山城はこの日のお城廻りの疲れを癒してくれた。
主曲輪からの眺望
主曲輪から北方を望む

縄張り図
国吉城と麓の栗屋館の縄張り

 城郭の歴史
 国吉城の創築は「若狭国誌」によれば、「往昔、某姓国吉ナル者ノ築ク所勝久再興 故ニ旧名ヲ称ス「とあり、常国国吉であるとされている。

 弘治2年(1556)若狭国守護武田義統(よしむね)の四大老の一人、栗屋越中守勝久が若狭防御の出城として再興したとされる。

 永禄6年(1563)越前守護朝倉義景の命を受けた越前敦賀手筒山城主・朝倉太郎左衛門,半田又八らは約1千騎で国吉城に向けて進行した。
いち早く朝倉方の動きを察知した栗屋勝久は約800の兵を集め、機先を制して攻撃し、朝倉勢を撃退。
 翌永禄7年にも朝倉勢は国吉城を攻めるも攻めきれず、朝倉勢の攻撃は永禄8年,同11年と続くが国吉城を落とすことはできなかった。

 元亀元年(1570)4月、織田信長は朝倉攻めの軍を起こし、近江路を経て若狭に入り、国吉城に逗留。国吉城を拠点に4月25日に疋壇城手筒山城を落とし、26日には金ヶ崎城を開城させた。

寛永11年(1634年)酒井忠勝が12万3500石をもって若狭国主となった後に廃城となった。
 なお、山麓の徳賞寺には栗屋勝久の墓といわれる五輪塔がある。
土止めの石積み
土止めの石積み

 



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