越前 北庄城(北ノ庄城)
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 城郭の概要
所在地:福井市中央1丁目
別 名 :北ノ庄城
築 城 :天正3年(1575)
初城主:柴田勝家
区 分 :平城
遺 構 :石垣
城域 : −
 現地への案内

JR福井駅の南西、約500m

詳細位置はコチラ 

 駐車場
有料駐車場を利用

【訪 城】
2001年,2008年8月
【撮 影】2008年8月

評価項目 見所評価
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


観光
県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館

 一乗谷の発掘調査で出土した武具や生活用品、朝倉氏の館の模型など多くの資料が展示されている。

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柴田勝家の菩提寺(西光寺)
福井市左内町8-21

 柴田勝家の菩提寺、境内には勝家とお市の方の墓があり、勝家の自筆の書や刀剣、金の御幣の馬標等がある。
 境内にある柴田勝家公資料館には、1874年に発掘された北の庄城の鬼瓦などが展示されている。

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藤島神社
福井市毛矢3-8-21
 新田義貞を祭る神社。義貞が戦死したとされる燈明寺畷の新田塚に建てられていたが、1901年に現在の足羽山中腹に移された。藤寿殿には義貞ゆかりの遺品や美術品を収蔵。
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お勧め度






北庄城の本丸跡とされる柴田神社
北庄城の本丸跡とされる柴田神社

 現地の状況
 北庄城といえば、柴田勝家が築城し、天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いの敗戦で羽柴秀吉軍によって攻められ落城・炎上した城が思い起こされる。

 北庄城の歴史は柴田勝家の時代から遡ること更に約100年、文明年間に朝倉貞景の二男・頼景によって館が建てられた時に始まる。
 しかし、朝倉頼景の館や柴田勝家の北庄城の位置は定かではない。北庄城の場合は福井城の南、約500mの柴田神社付近に石垣の根石と考えられる石が発見されたことから、柴田神社付近が本丸跡と推定されている。

 現在の柴田神社は繁華街の一角にあり、まさに平城。当時信長が琵琶湖を背にした平山城の安土城を築き、家臣の明智光秀が水城の坂本城を築いた時代にあって、柴田勝家は足羽川の湿地帯を利用した地形に築いたであろうことは容易に想像がつくが、現在の地形からは窺い知ることはできない。

 柴田神社の一角には、北庄城の石垣(根石)の一部が保存されており、北庄城時代の石垣は江戸期になって結城秀康による福井城築城によって取り壊されたと推定されている。

復興された天守閣

 柴田神社前には柴田勝家とお市の方(於市)の銅像が建てられている。北庄城の落城と共に自害して果てた柴田勝家は62歳、お市の方(於市)は37歳であった。

 北庄城が落城寸前に、お市の方(於市)と家臣・小島若狭守とのやりとりが太閤記に記載されているので紹介する。
----------------------------ココカラ
「小島若狭守は、小谷の御方に申されける。御身は信長公之御妹なれば出させたまえ。つつがもおわしますまじきと有しかば、小谷御方なみだをふくませ給ふて、去秋の終わり、岐阜よりまいり、斯みえぬことも前世之宿業、今更驚くべきに非ず。ここを出去ん事、思いもよらず候。しかはあれど三人の息女をば出し待れよ。父之菩提をも問せ、又自らが跡をも弔れんためぞかしと、のたまえば、いと安き御事なりとて、其よし姫君に申させ給ふ」
----------------------------ココマデ

 お市(於市)は、織田信秀の五女で、信長の妹であることはよく知られており、永禄10年(1567)に小谷城の浅井長政に嫁いだが、天正元年(1573)8月20日小谷城が落城し、浅井長政が自刃した後は、三人の娘と共に岐阜城で過ごしたと伝えられる。

 天正10年(1582)本能寺の変の後、織田信孝の策略で柴田勝家と再婚したが、翌天正11年(1583)柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、お市(於市)は勝家と共に自害した。
 勝敗は時の運、あるいは戦国の習いとはいえ、哀れである。
お市(於市)の像
お市(於市)の像
【勝家公の世辞の句】
 勝家はお市の方や家臣達と別れの杯を交わし、思い思いに郭に入り自害せんとした時に、遠くに止まった郭公(ほととぎす)を見て、

 お市の方は
さらぬだに打ぬる程もなつの夜のわかれをさそふほととぎすかな」と詠み、

 これを受けて勝家は、
夏の夜の夢ぢはかなき跡の名を雲井に上よ山郭公(やまほととぎす)」と詠んだものが世辞の句となっている。(太閤記)

勝家とお市(於市)の歌碑

 柴田勝家の菩提寺である西光寺(福井市左内町8-21)の境内には勝家とお市の方の墓があり、境内にある柴田勝家公資料館には、1874年に発掘された北の庄城の鬼瓦などが展示されている。



 城郭の歴史
 北庄城は朝倉貞景の二男頼景が北庄遠江守と称して、北庄に居館を定めたのが始まりとされ、文明3年(1471)朝倉孝景が居城を足羽川上流の一乗谷に移すと、北庄は北方の守りを固める重要な拠点になったと考えられている。

 天正元年(1573)織田信長に一乗谷城攻められ、朝倉頼景以来6代続いた北庄朝倉氏は滅亡した。
 越前を支配した信長は、朝倉氏に代わって北庄に津田,木下,三沢の北庄三人衆を置いたが、まもなく起こった一向一揆によって三人衆は北庄を追われる。

 天正3年(1575)信長は再び越前に兵を進め、一向一揆を平定すると、柴田修理亮勝家に越前8郡49万石を与え、越前の経営にあたらせると共に越後上杉氏と対峙させた。

 柴田勝家は居城を定めるにあたって、朝倉氏の一乗谷を捨てて北庄を選んだが、9年後の天正11年羽柴秀吉軍によって落城。
 柴田氏滅亡後は丹羽,堀,青木の諸氏が在城したが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て、徳川家康の二男結城秀康が越前に入部し、新城の建設を始め柴田氏の北庄城は消滅した。

 柴田勝家築城の北庄城については不明な点が多く、天正3年に築城に取りかかり、柴田氏が在城した天正11年までの9年間を通して工事が行われたと考えられている。
 北庄城は北に二の丸,三の丸と配し、後方は足羽川等の河川をおいた梯郭式の城と考えられるが定かではない。
 北庄城の城域は、北は神明神社、南は足羽川、東は吉野川(旧荒川)、西は片町から呉服町一帯にわたる大規模なものだったとされている。

 宣教師ルイス・フロイスが北庄を訪れた同9年にも工事が行われていたとされており、屋根は石で葺かれていたと報告している。
 同11年の北庄城の攻撃に際し、秀吉が小早川隆景,毛利輝元に宛てた書状にも「城中に矢蔵高く築き天主九重に上・・・・」と記されている。
 以上のことから、外観5層、内部7階の安土城天主にも劣らない城が築城されていてと考えられる。
北庄城の推定縄張り図
北庄城の推定縄張り図
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