金ヶ崎城
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 城郭の概要
所在地:敦賀市泉・金ヶ崎
別 名 :敦賀城
築 城 :建武3年(1336)延元元年
初城主: −
区 分 :山城
遺 構 :堀切,堅堀
城 域 : −
      比高 約100m


 現地への案内
交通機関は車を利用
 
 詳細位置はコチラmapfan
 駐車場
 専用駐車場を利用
【訪 城】2001年,2006年8月,2007年6月
【撮 影】2007年6月

評価項目 見所評価
選地 ★★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

月見御殿
南北朝期の本丸跡 月見御殿

 現地の状況
 古来より近江から越前への陸路は西近江路(現国道161号線)、および塩津街道(現国道8号線)で疋壇から敦賀〜木ノ芽峠〜今庄へ出るか、北国街道から刀根を経て敦賀〜木ノ芽峠〜今庄のルートで、敦賀はまさに交通の要衝の地であった。
 
 金ヶ崎城は敦賀湾に面した岬の先端に位置し、要衝敦賀の陸路と海路を押さえる位置にあり、南北朝期から天正年間にかけて金ヶ崎城を舞台に戦いが繰り広げられている。

 南北朝期の城といえば、杣山城(標高492m)や静岡市の安倍城(標高435m)など自然の要害地形と共に高所に城を構える場合が多い中、この金ヶ崎城の場合は標高が約100mと非常に低い。
それだけに、3方を海に囲まれた金ヶ崎城の立地が“守るに易く、攻めるに難い”地形であったということであろう。

 「太平記」には「彼の城の有様、三方には海依って岸高く、岩滑かなり、巽の方に当たれる山(手筒山)一つ城より高くして」とあり、また「寄手の城中を目の下に直下すといえども岸絶え、地険しく崖にして、近付き寄らねば城郭一片の雲の上に峙ち、遠くして射れば其の矢、万仭の谷の底に落つ。されば如何なる巧を出して攻めるとも、切岸の辺まで近づくべきさまもなかりけれ」とある。
 現在では金ヶ崎城の南方は埋め立てられ湾岸施設となっているため、当時の状況を窺い知ることはできない。

 金ヶ崎城の特徴は、一の城戸から二の城戸、三の城戸、それぞれの城戸に堀切を入れている点、および三の城戸の北側斜面に6条ほどの畝状堅堀を配している点である。
これは、朝倉氏の居城・一乗谷城の防御思想と同様で、これら遺構は元亀年間に朝倉氏が築いたものと考えられる。

尊良親王の墓所見込地
尊良親王墓所見込地


 城郭の歴史
 朝廷政治の復権を目論む後醍醐天皇による建武の新政が始まった建武2年(1335)、後醍醐天皇に背いた足利尊氏は翌3年に光明天皇を擁立し足利幕府を開く。

 京を逃れて吉野で南朝を樹立した後醍醐天皇は、恒良,尊良親王と新田義貞を越前に派兵。
 建武3年(1336)10月南朝方は金ヶ崎城に拠ったが、延元2年(1337)3月足利勢に包囲されついに落城。後醍醐天皇の第二皇子尊良親王と新田義顕は金前寺の観音堂にて自害。
 金ヶ崎城を脱出した新田義貞は瓜生保と共に杣山城に拠り再度奪還するが、足利勢に攻められ敗走した。

 長禄2年(1458)越前守護斯波義敏と越前守護代甲斐常治の間に起きた長禄合戦では、甲斐常治が金ヶ崎城に拠って、斯波義敏軍を撃退。

 元亀元年(1570)4月若狭国吉城に逗留していた織田信長は、突然越前に侵攻し、疋壇城手筒山城、および金ヶ崎城を落とし、今まさに越前に攻め込まんとした時に妹婿浅井長政の離反により、かろうじて京へ逃げ帰る。
 天正3年(1575)織田信長によって敦賀郡を与えられた武藤舜秀(しゅんしゅう)が花城山城に拠り、その後蜂谷頼隆が敦賀城を築くにあたって廃城となった。

  信長公記には、元亀元年の項に「越前手筒山攻め落とせらるゝの事」として信長が手筒山城、および金ヶ崎城を攻めた様子が記載されている。

三の城戸堀切
三の城戸の堀切




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