一乗谷城(一乗谷館)
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 城郭の概要
所在地:福井市城戸ノ内町
別 名 : −
築 城 :永享年間(1429〜1441)
初城主:朝倉教景・孝景
区 分 :山城
遺 構 :掘,土塁,石垣,堅堀
城 域 :500m×100m
     比高 約30m
    県指定史跡

 現地への案内
交通機関は車を利用
国道158号線から県道18号線に入り、一乗谷朝倉氏遺跡へ
 詳細位置はコチラ mapfan
 駐車場
 専用駐車場を利用

【訪 城】2001年,2003年11月
【撮 影】2003年11月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ★★★
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

朝倉氏館跡
朝倉氏館跡

 現地の状況
 一乗谷城は一乗谷川が造る狭い谷あいに築かれた朝倉氏館の背後の山一帯に築かれており、朝倉氏館の詰の城である。
この一乗谷は三方を標高400mほどの山で囲まれ、北を流れる足羽川に向かってのみ開いた地形となっている。
 一乗谷城への登城道は、九頭竜線の一乗谷駅のある安波賀地区から登るルートと、下城戸の八幡神社から登るルート、および朝倉館の背後から登る3つのルートがある。
 朝倉氏館から千畳敷と呼ばれる本丸までは、急な斜面にほぼ直登する形でつけられた山道を登ること約1時間(約1.1km)。
途中に、20m四方と15m四方の二つの曲輪からなる宿直跡があり、15m四方の曲輪の周囲には、高さ1mほどの土塁が巡らされている。この宿直跡が館と一乗谷城をつなぐ拠点となっている。

 宿直跡から更に山道を登ると、千畳敷と呼ばれる本丸(標高約415m)に出る。本来、山城において本丸といえば、山の最高部に設けられるのが常であるが、一乗谷城では、本丸から一の丸(標高443m),二の丸(標高463m)を経て最高部の三の丸(標高473m)と続く。
 この間、各曲輪間には堀切を入れ、連郭式の山城における基本的な防御がなされている。なお、山中には100を越える堅堀があるという。
館と一乗谷城の築城される山
朝倉氏館と一乗谷城が築城される山

 朝倉氏館は一乗谷川に沿って形成された谷あいの南に上城戸、北に下城戸を設け、その間約1.7kmの城戸ノ内の中心部に造られており、周囲に武家屋敷が配置している。
 館正面には唐破風造りの門が残るが、これは朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられた松雲院の寺門として豊臣秀吉が朝倉義景の菩提を弔うために寄進したものと伝わっている。
下城戸の石垣
下城戸の石垣と土塁


 城郭の歴史
 

一乗谷に本拠を構え、約100年にわたって越前を支配してきた朝倉氏であったが、元亀元年(1570)4月、10万の大軍を率いた織田信長に疋壇城金ケ崎城、および手筒山城を落とされ、木ノ芽峠から越前に攻め込まれようとした時、姻戚関係にあった浅井長政の離反で危機を脱した。
 同年6月、近江湖北の浅井長政と共に姉川の戦いで織田・徳川連合軍に敗れる。
 その後、浅井軍と共に堅田の織田信治を攻め落とし、織田軍との戦いを優位に進めるが、天正元年(1573)7月、小谷城を攻める織田軍に対し、浅井氏に援護のため、柳ヶ瀬に着陣するも、織田軍との小競り合いで敗れ、退却する途中の刀根越えで織田軍に追いつかれ惨敗。
 一乗谷に帰った朝倉義景は大野の六坊賢松院に退いたが、式部大輔に裏切られ自害して果て、一乗谷城は、朝倉氏を見限った平泉寺宗徒に攻められ落城した。

朝倉氏館の堀
朝倉氏館の堀
 



観光
朝倉義景墓所
大野市泉町10

 一乗谷の戦いで敗れ、大野に逃れてきた朝倉氏5代城主の朝倉義景は一族の裏切りにあい、六坊賢松寺で自害した。墓は1800年(寛政12)に子孫によって建てられた五輪塔で、近くには家族や家臣の墓もある。
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明智神社
福井市東大味
 明智城を斎藤氏に落とされた後、鉄砲指南役として越前の朝倉義景に仕えていた当時の住居跡と言われている。
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ゲンジボタルの名所

 下城戸城付近はホタルの里とよばれ、初夏になると闇の中にホタルの柔らかい光が舞い、幻想的な光景を見ることができる

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