戌山城
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 城郭の概要
所在地:大野市犬山
別 名 : −
築 城 :南北朝期〜室町末期
初城主:斯波義種
区 分 :山城
遺 構 :堀切,畝状堅堀,土橋,土塁
城 域 :420m×500m
      標高 324m
      比高 約100m
市指定史跡

 現地への案内
交通機関は車を利用
 
 詳細位置はコチラmapfan
 駐車場
 路上駐車
【訪 城】2007年4月
【撮 影】2007年4月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

北西尾根の堀切と堅堀
北西尾根の堀切と堅堀

 現地の状況
 犬山の北西、“みくら清水”の横から山中に入ると、すぐに曲輪状の削平地があるが、これは多分古墳遺構。
急な斜面を直登するような形で北西側尾根筋を登ると約10分ほどで小振りな堀切に至る。ここからが城域となる。
更に5分ほども登ると、深さ約4m、城内側からは15〜20mはあろうかという2つめの堀切に出る。この堀切の手前の曲輪が北西尾根の防御拠点で曲輪周囲に無数の畝状の竪堀を配しているが、曲輪の削平状態も良いとはいえない。
 更に10分ほどで深さ5mほどの3つめの堀切に出る。堀底から城内側の切岸は高さ20mを超える強烈な堀切で、足場が造られていなければとうてい登ることは出来ない。
 この堀切を越えると二の曲輪に至るが、二の曲輪周囲の急斜面には無数の畝状竪堀を配し、まさに鉄壁の防御である。
二の曲輪から主曲輪(25m×20m程度)へは高さ5〜6mほどの高低差を伴っているだけで、構造的には二の曲輪と主曲輪を併せて「主曲輪」とするのが妥当であろう。

 主曲輪を中心として、登ってきた北西尾根の他に北東尾根、南尾根と3本の尾根が放射状に延びている。
北東尾根には階段状に曲輪を配し、3〜5つの曲輪毎に堀切を入れ、4つの堀切を確認。山城の堀切には平坦な尾根筋に3重、4重の堀切を設けていることはよくあるが、戌山城のように急斜度の尾根に4重もの堀切を設けているのは非常に珍しい。
 主曲輪から南尾根へは、20mを超える強烈な堀切を介し、4つの堀切を経て小曲輪群に至る。

 戌山城は竪堀と堀切,切り岸を多用した山城で、土塁は主曲輪北東のもの以外には確認できなかった。
 畝状堅堀は朝倉氏の城に多く見られる特徴の一つで、朝倉氏によるものと考えられるが、城域全体に配置された個々の防御パーツのスケールの大きさは、朝倉氏滅亡後、天正期に豊原寺を中心とした一向一揆勢が改修したではないか。
なぜなら、弱者ほど堅固な城を築くものである。
縄張り図
戌山城の縄張り図


北西尾根の堀切
北西尾根の堀切

 城郭の歴史
 「城跡考」によれば、戌山城は足利尾張守三男斯波伊予守義種,大野左衛門佐満種,大野修理太夫持種,大野修理太夫義鏡,斯波氏家臣千福中務大輔,朝倉下野守経景,朝倉与三衛門景職( かげもと),朝倉孫八郎尹景(景隆),金森五郎八郎長近等の居城と記されている。

 戌山城は斯波高経が越前国を領した時に、三男・義種が大野郡を領時に築いたのが創築とされ、その後、義鏡まで4代にわたって斯波氏の居城となった。
 応仁・文明の乱(1467)の後、朝倉孝景が越前をほぼ掌握すると朝倉孝景の弟・朝倉経景が居城とした。朝倉氏滅亡後、天正3年(1575)に大野郡を知行した金森長近が居城とするが、翌4年(1576)に亀山に大野城を築いた後は廃城となった。



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