疋壇(ひきた)城
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 城郭の概要
所在地:敦賀市疋田
別 名 :疋田城
築 城 :文明年間(1469〜1487)
初城主:疋田久保
区 分 :平山城
遺 構 :空掘,土塁,石垣,櫓台
城 域 :130m×300m
     比高 約30m
    県指定史跡

 現地への案内
交通機関は車を利用
国道8号線、疋田の信号から国道16号線に入り、約500m
 詳細位置はコチラ mapfan
 駐車場
 空地を利用

【訪 城】2001年4月,2006年11月
【撮 影】2006年11月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ☆☆
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

石垣
本丸櫓台の石垣

 現地の状況
 国道161号線から疋田の集落に入り、集落とJRの線路の間一帯が疋壇城の城域である。
 車で本丸下の空地まで登ることが出来る。この空地は小学校の跡地で、小学校が建設されたことで疋壇城の約1/3に遺構が失われているが、小学校跡地から北側一帯には良好に遺構が残されている。
 空地から比高差5〜6mの高台が本丸櫓台で、広さは10m四方。中央部に疋壇城址の石碑が建てられている。櫓台から北側に曲輪が広がるが、大部分は畑地として利用されている。
 この曲輪の西側に空掘が残り、空掘は北側では曲輪とも見える大堀切と繋がっている。堀切の北側には更に曲輪が続き、北麓の日吉神社まで遺構は広がっている。

 歴史的には、天正元年(1573)の織田信長により越前攻めの後、疋壇城は破却されたとされるが、疋壇城のあちこちに残る石垣や堀の土止めの石積み等は朝倉氏の城では見ることは出来ず、朝倉氏のものでないことは明かである。
 朝倉氏を滅ぼした後の織田方による改修も考えられるが、朝倉始末記によれば、「元亀元年、信長によって平定された越前は、天正3年には“一揆持ちの国”となり、信長は天正3年8月に約5万の軍勢を仕立て、徳川軍1万3千、柴田勝家軍1万2千の他、合わせて約10万の軍勢で越前攻めを行う」とある。

 当時これだけの大軍を仕立てることの出来た信長が、わざわざ一向一揆衆を相手に疋壇城を改修するとは考え難く、残る可能性としては賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家によって改修されたことが考えられる。

 天正10年、清須会議後、湖北三郡と長浜城を手に入れた柴田勝家は、江越国境に玄蕃尾城を築き、玄蕃尾城北庄城のほぼ中間地点にあり、交通の要衝の地にある疋壇城を対秀吉戦に向けて改修した可能性が非常に高い。
 現在疋壇城の中核部東西に残る横堀も、玄蕃尾城に残る空掘と規模的にも同程度で、櫓台を主曲輪の隅の置く思想も玄蕃尾城と同じで、そんなところにも柴田勝家による改修の陰を感じる。

石垣
東斜面に残る石垣

 城郭の歴史
 この疋壇城は文明年間(室町時代1469〜1487)に朝倉氏の将・疋壇対馬守久保が築いたものである。

 この地は柳ヶ瀬越,塩津越,海津越の主要江州路が集まる交通軍事上の要衝であるので、朝倉越前の最南端防衛拠点として築城されたものであり、本城の東・南・西の三方には、それぞれ出城も設けられていたものと思われる。

 しかし、この城が栄えたのは100年間ぐらいで、元亀元年(1570)織田信長が手筒山城を攻略した際に金ヶ崎城と共にこの城も破壊された。
 信長軍の撤収後にいったんは修復されたらしく朝倉の臣・栂野三郎右衛門尉景仍等が布陣した記録もあるが、天正元年(1573)8月、信長再度の越前進撃により城主・疋壇六郎三郎は討ち死にし、城は完全に破却された。

 古代三関のひとつである愛発関の位置は明かではないが、国道161号線を南へ約4kmの県境中山集落辺りであるという説が有力視されている。

空掘
本丸背後の空掘
 



観光
柴田氏庭園
敦賀市市野々
TEL:0770-22-8153
(敦賀市文化課 )
入園料:100円

 江戸時代の敦賀の豪農・柴田権右衛門が、絵師・狩野探幽に地割り設計を任せたという築山泉水庭で、国の名勝に指定されています。
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大原山・西福寺
敦賀市原13-7
入園料:300円

徳川中期の築造といわれ、自然の山と泉右灯ろう等の配置にすぐれた書院庭園として、紅葉の頃が美しく、また浄土宗では北陸きっての名刹とされています。
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