藤島城
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 城郭の概要
所在地:福井市藤島町
別 名 : −
築 城 : −
初城主: −
区 分 :平城
遺 構 :土塁
城 域 : −


 現地への案内
交通機関は車を利用
 
 詳細位置はコチラmapfan
 駐車場
 西超勝寺の駐車場を利用 約10台駐車可
【訪 城】2007年3月
【撮 影】2007年3月

評価項目 見所評価
選地 ☆☆
縄張り
普請
体力消耗度 ☆☆
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

藤島城の石碑
西超勝寺の山門と藤島城の石碑

 現地の状況
 藤島城は現在の西超勝寺一帯とされるが、周囲には城郭の面影をとどめるものは残っていない。唯一、本堂の裏手の境内に土塁の一部が残されている。
 地図から推察すると、西超勝寺と隣接する大光寺、および白山神社を中心として築かれていたと考えられる。
また、西超勝寺と隣接する大光寺の敷地は方形で、その広さが約100m×約50m(1町×半町)であり、藤島城の中核部を暗示しているような気もする。

 なお、超勝寺は明徳3年(1392)に本願寺5世綽如(しゃくにょ)が創建したもので、朝倉貞景や織田信長に対抗した越前一向一揆の本願寺派の拠点となった。
 西超勝寺の南約100mには東超勝寺があるが、これは慶長5年(1602)に本願寺が東西二派に分かれた時に超勝寺も二派に分かれたものである。

境内に残る土塁
境内に残る土塁の一部

 城郭の歴史
 建武2年(1335)後醍醐天皇に背いた足利尊氏は、翌建武3年に光明天皇を擁立。後醍醐天皇は尊氏と講和するが、北陸方面に恒良親王,尊良親王と新田義貞率いる軍を派兵。
 南朝軍は越前守護・斯波高経(たかつね)の迎撃に苦戦しながらも敦賀金ヶ崎城に入城したが、尊氏が大軍を動員して金ヶ崎城を攻めたため、新田義貞は弟の脇屋義助と共に南条郡の杣山城に入り、金ヶ崎城を支援する作戦をとるも、建武4年3月に金ヶ崎城は落城。尊良親王と新田義貞の子・義顕は戦死し、恒良親王は毒殺された。
 翌暦応元年(1338)には新田義貞は金ヶ崎城を奪還し、大野郡の平泉寺宗徒等を味方につけて府中で斯波高経を破り、斯波高経を足羽郡の黒丸城(黒丸城は小黒丸城と大黒丸城の総称)に追いつめた。
 斯波高経は黒丸城を中心とする足羽七城(和田城、安居城、波羅蜜城、藤島城、高木城、黒龍城、溝ヶ城(高木城))に拠って抗戦し、藤島の戦いで新田義貞を破る。
 なお、足羽7城については諸説があり、「城跡考」では小黒丸城、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城をいうが、江守城の代わりに和田城を入れる場合もある。


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観 光
称念寺
坂井市丸岡町長崎19-17
称念寺
 境内には、1338年(延元3)に燈明寺畷(とうみょうじなわて)で戦死した新田義貞の五輪塔がある。
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新田義貞戦没伝説地(燈明寺畷)
新田義貞戦没伝説地(燈明寺畷)

 新田義貞が暦応元年(1338)に、斯波高経の軍勢に出会い、無念にも敗れ戦死したと伝えられる場所。江戸時代に義貞のものと思われる冑が水田から発見され、当時の藩主・松平光通が義貞を称え石碑を建立した。国指定史跡となっている。
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藤島神社
福井市毛矢3丁目8-21
 新田義貞とその一族が祀られており、新田義貞が着用していたといわれる冑・鉄製銀像嵌冑が所蔵されている。
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