安居城(あごじょう)
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 城郭の概要
所在地:福井市金屋町
別 名 : −
築 城 : −
初城主:細川出羽守
区 分 :平山城
遺 構 :曲輪,堀切,土塁
城 域 :200m×100m3
     比高 40m

 現地への案内
交通機関は車を利用
 
 詳細位置はコチラ mapfan
 駐車場
 溜池横の空地を利用 約20台駐車可
【訪 城】2007年3月
【撮 影】2007年3月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

主曲輪
主曲輪と土塁

 現地の状況
 安居城は北から延びる尾根が日野川に突き出した尾根の先端付近に築城されており、与須奈神社の背後、廃墟と化したホテル横から山中に入ると、5分足らずで安居城の主曲輪に出る。
 主曲輪は尾根の背後(北)と西側を切り出して造築しており、南北30m、東西40mほどの方形で曲輪の削平状態は極めてよい。
 主曲輪の南東隅に高さ2m、長さ5mほどの土塁がある。おそらくは虎口に関連して築かれた土塁と思われるが、変革を受けているのか、虎口形状が明らかではない。現在、主曲輪への入口は南東隅と北東隅、および南西にあるが、おそらくは当時からのものと考えてもよいであろう。

 主曲輪から南に延びる尾根に幅7〜8m、長さ50mほどの二の曲輪を配している。二の曲輪の西側には約10mの切岸を経て幅5〜6mの袖曲輪(三の曲輪)、さらに7〜8mの切岸を経て袖曲輪(四の曲輪)を配し、急峻な尾根は日野川に延びている。
 二の曲輪の先には、比高差15mほどの切り岸を経て廃墟と化したホテルがあり、更には与須奈神社へと続く。現在の地形からホテルの建てられている場所は堀切と考えられるが、ホテルを建てるときに堀切が拡張された可能性もある。
こうした曲輪配置からは現在の与須奈神社は出曲輪と考えるのが妥当であろう。
虎口
主曲輪虎口

 城郭の歴史
 安居の地は福井平野にあって日野川と一乗谷を流れる足羽川のほぼ合流地点に位置し、古くから要衝の地として位置づけられ、南北朝期に越前守護・斯波高経の家臣・細川出羽守がこの地に城を築いたのを安居城の創築とされる。
 この安居城が一躍戦う城として機能するのが、建武の中興における戦いである。

 建武2年(1335)後醍醐天皇に背いた足利尊氏は、翌建武3年に光明天皇を擁立。後醍醐天皇は尊氏と講和するが、北陸方面に恒良親王,尊良親王と新田義貞率いる軍を派兵。
 南朝軍は越前守護・斯波高経(たかつね)の迎撃に苦戦しながらも敦賀金ヶ崎城に入城したが、尊氏が大軍を動員して金ヶ崎城を攻めたため、新田義貞は弟の脇屋義助と共に南条郡の杣山城に入り、金ヶ崎城を支援する作戦をとるも、建武4年3月に金ヶ崎城は落城。尊良親王と新田義貞の子・義顕は戦死し、恒良親王は毒殺された。
 翌暦応元年(1338)には新田義貞は金ヶ崎城を奪還し、大野郡の平泉寺宗徒等を味方につけて府中で斯波高経を破り、斯波高経を足羽郡の黒丸城(黒丸城は小黒丸城と大黒丸城の総称)に追いつめた。
 斯波高経は黒丸城を中心とする足羽七城(和田城、安居城、波羅蜜城、藤島城、高木城、黒龍城、溝ヶ城(高木城))に拠って抗戦し、藤島の戦いで新田義貞を破る。
 なお、足羽7城については諸説があり、「城跡考」では小黒丸城、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城をいうが、江守城の代わりに和田城を入れる場合もある。

 戦国期における安居城は、朝倉孝景とともに越前統一をめざし、孝景没後は氏景を補佐し越前統一を実現させた朝倉経景(つねかげ)や姉川の戦いに総大将として参陣した朝倉景健(かげたけ)が居城としている。

 



観 光
称念寺
坂井市丸岡町長崎19-17
称念寺
 境内には、1338年(延元3)に燈明寺畷(とうみょうじなわて)で戦死した新田義貞の五輪塔がある。
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新田義貞戦没伝説地(燈明寺畷)
新田義貞戦没伝説地
 新田義貞が暦応元年(1338)に、斯波高経の軍勢に出会い、無念にも敗れ戦死したと伝えられる場所。江戸時代に義貞のものと思われる冑が水田から発見され、当時の藩主・松平光通が義貞を称え石碑を建立した。国指定史跡となっている。

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藤島神社
福井市毛矢3丁目8-21
 新田義貞とその一族が祀られており、新田義貞が着用していたといわれる冑・鉄製銀像嵌冑が所蔵されている。
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お勧め度






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