大野田城
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【城郭の概要】
所在地:新城市野田字幹徳
別 名 : −
築 城 :天文元年(1532)
初城主:菅沼大膳亮定継
区 分 :平城
遺 構 :土塁,空堀
城 域 :50m×30m

市指定史跡


大野田城の地形
大野田城の地形

【現地への案内】
国道151号線稲木の信号を南入る、約1km中市場の信号の西200m
詳細位置はコチラ 

【駐車場路上駐車
【訪 城】2003年4月
【撮 影】2003年4月


評価項目 見所評価(三段階評価)
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
 が多い方がお勧め (体力消耗度は大きい)
【現地の状況】
 現在、城の北側は空堀と湿地帯、東側は池、西側と南側は田圃となっている。何の変哲もない地形からは、どうしてこんな所に城を築いたのか不思議な感じがするが、西側の田圃の未耕作地の一画に葦が生えており、当時は豊川を背後にし、周囲を湿地帯で囲まれた城であったことが窺える。
 小さな丘を城域としており、約1km西の野田城と共に豊川を巧みに利用した選地である。

 城内のほとんどが竹藪、あるいは林となり、下草も多く荒れていて全貌が掴み難い。
城の防御を周囲の川や湿地帯に依存して、城郭外周ラインで防御していたためか、城内には防御施設が無い。そのため城と云うよりも屋敷跡と云った印象を受ける。

【城郭の歴史】
 大野田城は建武の新政の頃、富永氏の出城で、後の応永年間(1394〜1427)の頃は城所浄古斎の砦であった。永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間で討ち死にすると、野田城の菅沼定盈は今川から離れて徳川家康についたため、義元の子今川氏真は怒って、永禄4年に菅沼定盈を攻めた。定盈は衆寡敵せず、一旦は和議を結んで野田城を明け渡したが、翌5年再度野田城を奪い返した。
 この戦いで野田城が大破したので修復のため、定盈は浄小斎の旧砦を利用して本丸とし、更に二の丸。三の丸を北側に拡大して、その名も大野田城とした。

 元亀2年(1571)武田信玄は足助城(別名:真弓山城)を陥れ、作手からこの城を攻め、定盈は城に火を放って豊川を渡り、西郷(豊橋市)へ退却し廃城となった。
現在も本丸の土塁や空堀の跡はよく残り、中市場池は明治の頃、本丸を切り崩して造られた農業用の溜池である。
新城市教育委員会 現地案内板より


三河,遠江における武田と徳川の攻防
 永禄11年(1568)12月、今川領の駿河に攻め込んだ武田信玄は、薩捶山で今川氏真率いる今川軍を破った後、今川氏に味方する北条氏康と戦うことになるが、永禄12年(1569)10月三増峠の戦いで北条軍を破り、12月には駿府から今川氏真を追い出し、元亀元年までの約2年間でほぼ駿河を支配した。
 一方、武田軍と時を同じくして今川領・遠江に攻め込んだ徳川家康は、永禄11年12月27日に掛川城を攻め、翌永禄12年1月には徳川軍に抗戦していた浜名氏の佐久城を落とし、2月には宇津山城を、3月には気賀・堀川城を攻略して6月には天方城飯田城を落とすと、元亀元年(1570)6月には曳馬城(引馬城)に移った。
 駿河の富士川以西をほぼ掌握した信玄は、駿東郡と伊豆では北条軍と戦いながらも、攻撃の矛先を遠江にも向け、元亀2年(1571)2月16日躑躅が崎を出発した信玄は、駿河の大宮城を攻略すると田中城を経由して24日には大井川を渡って遠江に入り、遠江攻略の橋頭堡として吉田町に小山城を築城した。
小山城の空掘と丸馬出

 3月にはいると遠江・高天神城まで兵を進めた信玄は、翌日には兵を引き犬居城を経由して信濃伊那谷・高遠城に入ると、秋葉街道(現国道152号線)から信州街道を経て、三河,遠江に出ることのできる伊奈・大島城の普請を秋山信友に命じた。
 4月に三河に軍を進めた信玄は、鈴木越後守重直の籠もる足助城を攻略し、菅沼新八郎定盈の大野田城に続き、田代城,大沼城,八桑城等の諸城を落とすと4月29日に吉田城を攻め仁連木で徳川軍と戦う。三河に侵入した信玄は、三河の吉田城と浜松城を分断するため、馬場美濃守信房に命じ三河・遠江国境に近い作手に古宮城を築いた。一方駿河では北条方の興国寺城深沢城、および長久保城を攻略し駿東郡でも優位に立った信玄は、北条氏康の跡を継いだ氏政からの同盟の申し入れを受け、12月には相甲同盟を復活させた。
 北条氏と同盟を結び、東方の憂いの無くなった信玄は、信玄の正室・三条の方と縁戚にあたる本願寺・顕如と対信長共同戦線を結び、北条氏と共に能登,加賀一向一揆に北方の上杉謙信を牽制させると、元亀3年(1572)9月信玄は山県昌景率いる別働隊を三河へ、また秋山信友には美濃に攻め入らせ家康と信長を牽制した上で、自らは10月10日に遠江攻略に向けて(一説には西上が目的だったとしている)躑躅が崎を発し、伊那谷から青崩峠を経て天竜川沿いに南下。
 犬居谷では内応してきた犬居城城主・天野景貫を先鋒として、只来城を落とし19日には二俣城を包囲した。 二俣城は天竜川と二俣川が合流する要害地形にあって、武田軍にとっては諏訪から天竜川を下り遠江の平野部に出る重要な位置にあり、徳川軍にとっては家康の居城・浜松城までは20km足らずである上、天竜川の隘路で武田軍の南下を食い止める重要な戦略的拠点である。 二俣城が包囲されたとの知らせを受けた家康はすぐさま信長に援軍を要請したが、信長軍の佐久間信盛、滝川一益、平手汎秀等が到着する前に二俣城は落城した。
 二俣城に続いて飯田城を落とした武田軍は一言坂の合戦で家康を撃破し、美濃に攻め入った秋山信友は11月14日に岩村城を攻略した。 二俣城を落とした信玄は、合代島で天竜川を渡ると家康の居城・浜松城を目指して三方原台地を南下し、12月22日に三方原で家康軍と戦いにおよび圧倒的な勝利を得る。(三方原の戦い)
 三方原から気賀へ出た信玄は刑部で越年し、翌元亀4年(1569)2月に三河・野田城を攻略するが、病状が悪化して4月12日に帰国途中の伊奈駒場で没した。 信玄亡き後、武田家の家督は信玄の勝頼の嫡男・信勝が継いだが、幼少であったため、信勝が成人するまでの間、勝頼は陣代として実質的に武田家の総帥となった。
 元亀4年(1573)7月23日に改元され天正元年となったこの月、家康は長篠城を攻め、9月8日に開城させると、二俣城攻略のため社,山,合代島、渡ヶ島に砦を築いた。
設楽が原の織田・徳川軍のの馬防柵
 武田軍は長篠城を落とされ信濃から三河に出る重要拠点を失ったが、勝頼は信玄が死に際に「3年間は我死たるをかくして、喪に服せ」と云った遺言を守り、直接的な軍事行動は起こさず、10月に大井川の東端にある牧ノ原台地に諏訪原城を築いて小山城と共に遠江の攻撃の足場とした。

 翌天正2年(1574)3月家康は諏訪原城と二俣城の繋ぎの城である天方城を攻略し、二俣城の孤立化を図った。こうした家康の活発な動きに対して、勝頼は3年間の軍事行動を諫めた信玄の遺言を守りきれず、5月12日遠江の要衝・高天神城を包囲すると、激しく攻め立て6月18日に開城させた。 武田軍に高天神城を落とされ、遠江の徳川領内に楔を打ち込まれた形の家康は、居城浜松城と高天神城のほぼ中間にあたる馬伏塚城を改修し大須賀康高を入れ、高天神城奪回の拠点とした。こうして勝頼と家康は直接的な戦いを避けながら、遠江の覇権をめぐって戦略拠点を奪い合う戦いを繰り広げた。
 高天神城を落として意気の上がる勝頼は、天正3年(1575)4月、遠江から一転して三河に進出し、足助,作手,野田、吉田で放火、徳川軍と小競り合いをした後、5月には天正元年9月徳川軍に落とされた長篠城を奪回すべく包囲した。
 家康にとっては二俣城を孤立化させながらも落とせない中で高天神城が落ち、今また長篠城も落とされると、居城・浜松城は腹背に敵を抱えることになり、なんとか長篠城を死守したい家康は信長に加勢を頼み、信長と共に設楽原に陣を構え、5月21日に設楽原の連吾川を挟んで武田軍と戦いに及び、織田・徳川軍は圧倒的な勝利を収めた。 設楽原で敗れた武田軍の痛手は大きく、その後武田軍の軍事行動は沈静化する中、天正3年5月織田信長は嫡男信忠に岩村城を攻めさせ、美濃から武田軍を追い出すことに成功。
 一方、家康も7月には浜松城から北上して二俣に向かい、二俣城の周囲に蜷原、毘沙門堂、鳥羽山、渡ヶ島の4砦を付城として築き、更に北上し光明城、犬居城を攻略して天野氏を追放する。二俣城を孤立させると、家康は攻撃の矛先を武田軍の遠江の拠点である諏訪原城に定め、8月10日に包囲して8月24日には落城させた。その勢いをかって小山城を取り囲むも、落とすまでには至らなかったが、12月24日、7ヶ月にわたって籠城してきた二俣城をついに開城させた。
高天神城本丸虎口

 徳川軍に諏訪原城と二俣城を落とされ、甲斐・信濃の領国から遠江に出るためには、富士川沿いに駿河へ出て小山城を経由するルートしかなくなった武田軍は、天正4年(1576)小山城から海岸沿いに高天神城城に至るルートの強化を図るために相良城を築くと共に、浜岡から塩買坂へ抜ける街道を確保するため朝比奈城八幡平の城等を浜岡周辺に築いた。
 こうした武田軍が高天神城への補給ルート確保する動きに対し、家康は武田軍の駿河ルートを潰すため、天正6年(1578)3月諏訪原城を改修し牧野城と改め、武田軍が高天神城への補給基地としている小山城田中城攻略の拠点とし、3月9日には大井川を越えて田中城を攻め、14日には小山城を攻めた。 7月15日家康が高天神城攻めの拠点としていた馬伏塚城よりも、より高天神城に近い拠点として築城を進めていた横須賀城が完成すると、8月には駿河・田中城を、また9月には小山城を攻め、高天神城を中心とする武田方の諸城への攻撃を本格化させていった。 
 激しくなる徳川軍の攻勢に対し、長篠の敗戦以後軍事行動を控えていた勝頼は天正6年10月に大井川を越えて遠江に入ると、新たに築城された横須賀城を横目に11月3日に高天神城に入城し、翌月12日には高天神城を出て、19日に田中城に入り諸城の巡検と共に徳川軍に対し軍事行動を示したが、天正7年9月家康は高天神城を攻める一方で、駿河に攻め込み持舟城を攻略した。
 一方、天正6年(1578)上杉謙信の跡目争いに端を発した上杉景勝と三郎景虎の争い(御館の乱)の際、勝頼は上杉景勝を支援する形で、天正7年(1576)10月越後・上杉景勝と同盟を結んだ。こうした甲越同盟に対し、上杉氏と敵対していた北条氏は相甲同盟を破棄し徳川家康と同盟を結び、以後武田軍は東上野と駿豆国境で北条軍とも戦うことになる。

 天正8年(1580)高天神城周辺から武田軍を一掃した家康は、高天神城の周囲に小笠(笹ヶ嶺御殿),大坂(三井砦),中村にふたつ(中村山砦,火ヶ峰砦),獅子が鼻(獅子が鼻砦)、能ヶ坂(能ヶ坂砦)に砦を築き、高天神城への兵糧・弾薬の運び入れの阻止と共に連絡を遮断した。 また高天神城を支援する田中城と小山城に対する攻撃もますます激しくなり、5月に田中城、7月には田中城と小山城が攻められる。こうした徳川軍の攻撃に対して、勝頼は9月に穴山信君を高天神城の救援に向かわせるも途中徳川軍との戦いに敗れ、高天神城は天正9年(1581)3月23日ついに落城する。高天神城の落城したことにより、遠江における武田軍の拠点は小山城だけとなった。


武田軍と徳川軍の戦いの舞台となった諸城の位置関係

 こうした遠江における武田軍の相次ぐ敗戦は、天正10年(1582)1月木曽義昌の離反を誘い、勝頼は討伐に向かうも木曽で敗れ諏訪に戻ると、2月には小山城が自落した。徳川軍は田中城を取り囲み、持舟城を攻め立てると、持舟城主・朝比奈信置は久能山城に退却した。   3月1日武田氏の親戚衆である江尻城城主・穴山信君が徳川に寝返り、この日に田中城も開城。翌日には高遠城が織田信長,信忠に攻められ落城し、雪崩を打ったように武田氏の諸城は落ち、武田軍は崩壊していった。 3月3日勝頼は築城後1年も経たない新府城に火をかけ、岩殿城の小山田信茂を頼って落ちてゆくが、笹子峠で行く手を阻まれ、田野で信勝と共に自刃して果て武田氏は滅亡する。
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