信玄塚

根羽村の信玄塚
 国道153号線を走ると、根羽村横旗に信玄塚を示す大きな看板が立っている。この横旗の名前の由来が、信玄の病が重く、悲しみのうちに風林火山の旗を横にしたことからきているという、嘘か誠か分からないが、地名になっているだけに一概には否定もできない。(^^;
 この地にある宝篋印塔は、寛文12年(1672年)甲斐国塩山の乾徳山恵林寺で、信玄公100年の法要が営まれた際に、五輪塔と宝篋印塔を修造されたが、その折り、武田家縁の人々によって、信玄終焉の地・横旗に宝篋印塔が建立されたと伝えられている。
 しかし、現地案内板には、塔の型式などから室町時代末期のものとされおり、寛文12年、つまり江戸期のものではないとしている。さてさて、なにが真実なのか訳が分かりません。(^^)


信玄塚の看板


信玄公を祀る武田神社
  武田信玄は三河国野田城(愛知県新城市)攻略の後、鳳来寺にて肺肝の治療をしていたが、病状が思わしくないので、田口、津具を経て甲斐国へ引き返す途中、元亀4年(1573)4月12日、53歳にて、ここ「ねばね」の上村において他界された(甲陽軍艦より) その折り、風林火山の旗を横にしたので、この地を横旗という。根羽村史跡信玄塚は、これより下方50mの所にある。
 寛文年間(1661〜1673)の頃、信玄公100年目の遠忌に際し供養のため、この宝篋印塔を建立した。下って宝暦(1751〜1764)の頃、横旗・中野・砦の三部落の人々によって武田神社として祀られた。
 この宝篋印塔は昭和28年池上年氏の鑑定により、室町時代末期の型式を備え、城主、大名級のものであるとされている。  根羽村教育委員会

武田神社と称される小さな祠


武田信玄のものとされる宝篋印塔


【所在地】
長野県下伊那郡根羽村横旗
詳細はコチラ

【訪問日】2003年5月2日
【現地を訪れて】
 この根羽村の宝篋印塔が本当に武田信玄のものかどうかは、現地を訪れた人が、信玄のものと信ずれば、それでよいわけで、今更分かるわけでもない真贋論争をしても始まりません。
えー、私? 眉に唾を塗りながら、半信半疑で手を合わせてきましたが、所詮は供養塔です。建てる気があれば今からでも、三方が原にでも、野田城址にも建てられます。(^^)
まぁ〜、信玄ファンの方は、機会があれば一度は訪ねてみるのもよいかと思います。





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