山本勘助の墓(長谷寺)

 戦国の昔、武田信玄の名軍師として有名な山本勘助は明応9年(1500)8月15日八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)の山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と名のっていました。
 勘助は15歳の正月に牛久保の牧野家家臣大林勘左衛門貞次の養子となり、大林勘助貞幸と名を改め、26歳の時に武者修行のため諸国を歴遊し武名を高めて、35歳の冬に大林家に帰ってきたところ。勘左衛門に実子が生まれていたため、親子の縁を切り養家を離れて関東の地を歴遊し、45歳の時に甲斐国(山梨県)」の武田信玄に仕え、知謀をもって忠誠を尽くし永禄4年(1562)川中島の合戦で討ち死にしました。
 その後、牛久保在住以来勘助と親交のあった長谷寺(ちょうこくじ)の念宗和尚がその死を悼み、彼の遺髪を埋めて建立したのがこの五輪塔だと伝えられています。また、勘助の守り本尊であったとされる摩利支天像(市指定)が、今なお長谷寺に安置されています。  豊川市教育委員会   −現地案内板より−


山本勘助の墓 (豊川市指定史跡)

【所在地】愛知県豊川市牛久保
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【訪問日】2003年4月6日
【現地を訪れて】
 勘助の墓は、案内板がないと誰にも分からないような、なんの特徴もない五輪塔だった。しかし、400年以上経った現在も勘助の墓と伝えられてきているのは、現代人の中に智将・山本勘助の人気が根強いことを示しているのではないか。




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