山本勘助の墓 千曲川河川敷
 山本勘助は三河の国(愛知県)の出身で、初めは今川義元に使えていましたが、後に武田信玄の家臣となりました。諸国を流浪して各国の事情に精通し、さらに天文,兵法,槍術など武芸百般を体得した信玄の参謀で諸国の情報を素早く入手し数々の策略を立てたと云われています。また、信玄が上杉謙信の攻撃に備えて築いた小諸城海津城(松代城)の構築も手がけました。
 永禄4年(1561)9月の川中島の合戦では、必勝を信じて「きつつきの戦法」を信玄に勧めたが、それを上杉謙信に見破られために武田軍は苦戦に陥りました。勘助はその責任を感じ、敵陣へ駆け込み奮戦をしたのですが、力尽きて討ち死にしてしまいました。
 この墓は昔はこの南方の高畑付近にありましたが、元文4年(1739)に松代藩家老鎌原重栄が今の地に移して碑を建てたものです。   −現地案内板より−


山本勘助の墓のある千曲川河川敷


 勘助の墓には、 法名の "山本道鬼居士墓" と刻まれていた。

山本勘助の墓


【所在地】長野市松城町牧島
【訪問日】2002年5月18日

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【現地を訪れて】
 訪れた時は春であったが、千曲川の河川敷はびょうびょうたる風景で、戦国武将の墓としては相応しい場所のように感じられた。また、川中島の戦いで落命した山本勘助にとっては、最高の場所に葬られているのかもしれない。
 墓には、いつ誰が供えたのか、ワンカップの酒が置いてあった。1.5車線ほどの土手に車を止めたこともあって、線香をあげ、早々に帰路についた。





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