信長公記に見る近江の城郭    巻三 元亀元年 (1570)

たけくらべ・かりやす取手の事

信長公記訳

 浅井長政は越前の朝倉義景に援助を求め、たけくらべ、かりやすに砦を構えた。信長公は策略をもって、堀二郎(堀秀村)、樋口三郎兵衛(樋口直房)を背かせた。
6月19日信長公が出陣なされたところ、堀二郎、樋口三郎兵衛の裏切りをしった
@長比城A刈安尾城B城兵達は慌てて退却し、信長公は長比城に2日間滞在された。
 6月21日、信長公は浅井長政の居城小谷城を攻め、森三左衛門、坂井右近、斉藤新五、市橋九郎右衛門、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破河内守、丸毛兵庫頭に雲雀山に陣を構えさせ、小谷城下を焼き払わせた。信長公は家臣らと共に虎御前山に陣を構え、柴田修理、佐久間右衛門、蜂屋兵庫頭、木下籐吉郎、丹羽五郎左衛門の近江衆に仰せつけられ、近在の村々に放火させられた。
解 説 
@
■ 長比城 ■
 山東町の北に位置し、まさに江濃国境の境目の城で、現地には分厚い土塁、枡形虎口など天正期における近江・浅井氏,越前・朝倉氏の築城時技術を知る上で貴重な城である。
解 説 
A
■ 刈安尾城 ■
 弥高百坊跡に浅井・朝倉軍が築いた城で、現在残る遺構から上平寺城も含めた広大な城域を刈安尾城と称していたと考えられる。
解 説 
B
 信長公記の記述をみると、信長公は策略をもって、堀二郎(堀秀村)、樋口三郎兵衛(樋口直房)を背かせた。」とあり、このために長比城,刈安尾城を守備していた城兵達は慌てて退却したと書かれているが、なぜ慌てて撤退したのか、また堀,樋口は浅井方にとってどのような役割を担っていたのか分からず、信長公記の記述だけではその様子を理解することが出来ない。
ここで、幾つかの記録を参考に考察してみたい。

浅井三代記
 浅井三代記 第十二 浅井朝倉ヲ呼出スニ不出事付重使之事 に以下のように記載されています。
「江州ト美濃国境長久山刈安ニ要害ヲカマへ越前勢三千余騎朝倉式部太輔ヲ大将ニテ籠ヲカル同今州口長亭軒ノ要害ヲカマヘ堀次郎ヲ籠ヲカル
 ここで、堀次郎が(二郎)が、今須口の長亭軒に立て籠もっていたことが分かります。さて、この長亭軒というのはどこにあるかということですが、この記述が"遍照山文庫所蔵"の文書の中にあります。

遍照山文庫所蔵
 「永禄之此,信長卿御合戦之節,浅井旗下堀次良,濃州長亭軒之城ニ樋口三郎兵衛ヲ差置,次良依幼少樋口執柄タリ,其頃信長公ヨリ秀吉エ仰アリケル故,重治長亭軒ヘ行テ樋口ニ有対面,信長卿に属セシム,信長公御感有テ,時ノ為御褒美則鎧一領刀一腰黄金等重治ニ被下ケルト也,此刀関ノ元重ナリ(とも)云々
 右長亭軒ト云ハ,不破郡松尾山之事也,古城ノ跡残レリ」

 この遍照山文庫について、謀図書館の館員さんのお手を煩わせて調べて頂きましたところ、関ヶ原にある円竜(龍?)寺のご住職が、ご自分で郷土資料を集められたものだそうで、滋賀県教育委員会が発行している「滋賀県中世城郭分布調査資料」や「関ヶ原町史」、あるいは中井均氏著の「街道を駆け抜けた戦国武将たち」のいずれも、この遍照山文庫を参考とされており、現在では長亭軒=松尾山(関ヶ原町)であるとする説が有力なようです。
長亭軒が松尾山であるとする疑問点
 さて、長亭軒=松尾山(関ヶ原町)とすれば、この城に籠もった堀・樋口が信長の調略によって寝返ったことによって、長比城,刈安尾城に立て籠もっていた朝倉勢(浅井三代記の記述による)が、どうして慌てて撤退したのでしょうか。 ここで、これらの城の位置関係を見てみたいと思います。長比城は滋賀県山東町にあって東山道(中山道)を押さえるを境目の城で、刈安尾城は滋賀県伊吹町にあって北国脇往還道を押さえる城で、長亭軒が落ちたぐらいで撤退するのは不自然です。

 この時の状況を考えた場合、朝倉勢が城を捨てて撤退する条件として考えられるのは、(1)食料,水の補給を絶たれ、籠城出来なく絶った (2)腹背に敵を受け退路を断たれる (3)押さえている街道を信長軍が通らず、守備する必要がない 等ですが、そのいずれにも当てはまりません。
 ここで、同様にこの長亭軒に関する記述がある「改正三河後風土記」の記述について、ご紹介しておきましょう。
改正三河後風土記
 「是より先江州には浅井父子兼て防戦の用意し、南郡刈安・長比両城を構へ、越前勢を分けて籠置、鎌の歯の城(岐阜記一名長軒向といふ。其業長亭軒の要害と有)には堀次郎の後見として樋口三郎兵衛・多羅尾右近を籠置、本江の要害には黒田長兵衛、横山の城には 云々」 と書かれています。
 この「改正三河風土記」では長亭軒は鎌刃城(坂田郡米原町番場)としています。

【無駄話】
 いやぁー、面白いですね。(^^)
歴史を調べるのがこんなに面白いとは知りませんでした。もし学校でこうした面白さを教えてくれていたら、今頃はきっと歴史関係の仕事に従事していたのではないかと思い、返す返すも残念です。(^^;

 学校の事を云えば、近頃「卒論のテーマを"城"にしているのですが、貴Homepageを参考にさせて頂いても良いですか」なんてE-mail が届くことが3度ほどありました。
勿論、私は著作権を主張して、コピーってはダメよ!!って云っていますが、あの学生さん達、どうしている事やら。(^^)
この長亭軒のこともパクリはダメよ〜。自分でしっかり勉強しないと。(^^)

【閑話休題】
 改正三河後風土記に書かれているように、長亭軒が鎌刃城とすれば、朝倉勢の撤退理由が「退路を絶たれる恐れがあったため」と説明がつくのですが・・・・。
もうひとつ、長亭軒=鎌刃城としている「武功夜話」の記述を紹介しておきましょう。

武功夜話
 此度の浅井の逆意に付き、箕浦、佐保山を礒野丹波堅固に取り固免、横山、新庄、田部式部要害を構え、これより繋手の取出、苅安、たけくらべ遠藤喜右衛門 丈夫に構え、能登勢在郷鎌羽の諸城、堀次郎、樋口三郎右衛門、同喜右衛門丈夫に構え、その人数一千有余人江州の路次を塞ぎ信長公の上洛の道に立ち塞がり候なり。

 ここでは堀・樋口は鎌刃城を守備していることになっており、改正三河後風土記に記述と一致します。


【まとめ】
 さて、長亭軒について記載されている書籍を引用して検討してきましたが、ここらで一応結論めいたものを出しておきたいと思います。
私自身は今のところ、以下の二つの可能性に傾いています。
(1)長亭軒は改正三河後風土記、武功夜話に記載されているように、鎌刃城(米原町番場)であった。
(2)浅井三代記に記載されている "今須口の長亭軒" は松尾山でも鎌刃城でもなく、全く別の砦が今須口にあった。(中山道今須には今でも "今須口" という地名が残っているそうで、一度確認してみようと思っています)

【補足】
 鎌刃城が長亭軒だとすれば、長比城が腹背に敵を受け守備する朝倉勢が撤退した理由になりますが、刈安尾城の場合は撤退する理由になりません。刈安尾城の場合は、伊吹山の東側・岐阜県春日村から上平寺峠越えルートを通じて信長軍の相当な圧力があったためと想像しています。
なお、上平寺峠越えルートについては後日紹介させて頂こうと考えています。

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