信長公記に見る近江の城郭    巻一 永禄十一年 (1568)

HOME信長公記に見る近江の城郭
信長御入洛十余日の内に、五畿内隣国仰せ付けられ、征夷将軍に備へらるゝの事

信長公記訳

 8月9日、@信長自ら近江佐和山城へ赴き 、足利義昭の使者に自分の使者を添えて、佐々木左京太夫承禎(六角承禎義賢)に、「足利義昭公上洛にあたり、人質を差し出して忠誠を尽くせば、京都所司代に任ずる」との申し入れをし、7日間佐和山城にて滞在したが、受け容れられず、京へ上がるにあたり江南での一戦を覚悟した。
 9月7日、義昭公に「近江に出発しますが、平定したした後に、お迎えに上がります」と挨拶をし、尾張・美濃・伊勢・三河の4カ国の軍を引き連れ、その日のうちに平尾村(現岐阜県垂井町)に陣取った。
翌日、近江高宮に着陣。2日間逗留して人馬を休め、11日愛知川近辺に野営して、信長は馬で状況を見て廻り、12日には六角承禎父子三人が立て籠もる観音寺城,箕作城と対陣し、佐久間右衛門、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、浅井新八に命じて、
E申刻(午後3時〜5時)より箕作城を攻めさせ、夜半に落城させた。
 美濃の国を平定して間もない時期でもあり、美濃平定後織田方についた武将達は箕作城攻めには自分たちが先鋒にさせられるだろうと考えていたところ、信長は馬廻り衆(信長譜代の家臣)だけで箕作城を攻めたため、美濃三人衆の稲葉伊予守、氏家ト全、安藤伊賀守等は意外な思いをしたという。
 箕作城を落とした信長は、その夜は箕作山に布陣し、F翌日六角承禎の居城・観音寺城を攻めようとしていたところ、六角承禎父子三人は既に逃亡しており、13日には観音寺城に入り、降参してきた六角氏の残党から人質を取り、所領を安堵することで、江南を平定した。14日には兼ねての約定通り、美濃・西庄立正寺の義昭公へ不破河内守を使者として使わせられた。
解 説 
@
 信長公記では、信長が佐和山城から六角承禎に使者を送ったとあるが、信長がわざわざ佐和山城まで出向いたのは浅井長政と対面し、近江攻めについての善後策を打ち合わせるという目的があった。
妹のお市を娘分とした後、浅井長政に嫁がして(永禄8年前後)から、初めて佐和山城で顔を合わせることになるが、この辺りの詳細が、「浅井三代記」の "信長卿江州佐和山ニ来タリ長政ト初メテ対面之事" の中に書かれているので紹介しておく。
浅井三代記









.
信長が佐和山城へ来て浅井長政と初めて対面すること
 「永禄十一年七月二十八日に信長卿より浅井備前守方ヘ使節を以て申させたまう。貴殿数年我等と対面之義を申し越されける共、路次の便りもいかがと思い難く留置候、且相談をとぐべき義候条来たる八日に犬上郡佐和山の城にして対面申すべく候間、内に左様に心得たまえと申し越されければ、備前守は A佐和山の城主磯野丹波守が方へ・・・・・・云々」

 「その夜は信長,長政両人奥へ御入成られ夜中密談したまう、後で承るに箕作攻め手の事、三好退治の御相談、諸事義昭公の御上洛の相談とぞ聞えける、云々」

 「その夜備前守と内談有て翌日佐々木一家の者共方へ先心をうかがいみばやとて義昭公の御使節に信長私の使いを相添え申し入れ給うは京都の逆徒三好を追罰成られたく思召に付、某其課を承候ひて此地迄まかり越候。御味方に参らるや本意をとげらるるにおいては無二の忠節たるべき旨申し入れさせたまえども、且以御申請さざれば押し返し、押し返し三度仰せられるも、遂に承引さざれば重ねて軍勢を卒し攻めるべし。長政にも勢を催し出張せらるべき旨、堅く契諾ましまして佐和山二十日余り御逗留成され、同二十日に岐阜へ帰座成されるべしと有りければ、 云々」
解 説
A
■ 佐和山城 ■
 浅井三代記によると、永禄11年当時、佐和山城は浅井氏の支配下にあり、磯野丹波守員昌が城主として在城していたことが分かる。
 現在の佐和山城には関ヶ原の合戦後に彦根藩主となった井伊直政による徹底した破壊により、遺構は良好な状態で残されているとは言えないが、姉川の合戦後に浅井氏の家臣磯野員昌籠城時のもの、あるいは豊臣政権下における石田三成が城主であった頃の遺構が点在して残っている。

 この時期、浅井三代記に面白い記述がある。
岐阜へ帰国する信長を摺針峠まで見送った長政は遠藤喜右衛門、浅井縫殿之介(たいのすけ)、中島九郎次郎の三人に今夜信長が宿を取る柏原の成菩提院の宿泊準備を命ずる。この時、遠藤喜右衛門は柏原から馬を飛ばして小谷に帰り、「信長を殺すのはこの時」と長政に進言する。
この時の状況が浅井三代記の "遠藤喜右衛門尉小谷ヘ馳帰事" に詳細に記されている。
浅井三代記
遠藤喜右衛門尉小谷城ヘ馳せ帰る
 「遠藤は馬に鞭打ち諸鐙(もろあぶみ)にて小谷へ馳せ参じ、備前守に逢い壱間所へ引立申しけるは此中信長卿の躾躰を見たてまつるに物毎に御気をつけらるること誠に猿猴の梢をつたうがごとし、發明なる事鏡に影のうつるがごとく成る大将也。御前行く末まで信長の御気にあわせうふ事成り難しかるべし。 B所詮只今此の地にて御討成られ御左と存ずるなり、信長はいかにも打解けさせたまいて馬廻りの面々もきな宿々へ返し御傍には小姓當番役の者十四五人ならでは是なし、御同心にて候はば某一人として討奉べし。急ぎ思し召し給ひ御人数を出され二百余の侍共ことごとく討ち取り、其勢いで濃州岐阜へ押寄るものならば、大将はうたしたまう也。残る武士共はみな御味方に参るべし、しからば尾張の国も早速に手に入り申すべし、Cその勢いを以て佐々木一家を追払い都に旗を揚げたまい、三好誅罰成られに何の子細の候べきと一口に申し上げれば長政は聞きたまい、遠藤が言葉をもそらしたまわず宣いけるは信長我等に打ちとけ父子のごとく思はるる故人数もめしつれずして當国に永く滞留したまう也。是非討つべしと存知じなば此中佐和山にして一刀に刺し殺すべしは安けれど武将と成身の心得有、謀を以てうつは是をゆする頼みて来るを討つことは是をゆるさず今信長のごとくに御心もおかせたまはずして居たまふと討ちなば一旦利有りといふとも終には天の責をかふむるべし、と宣いて少しも同心したまはねば遠藤は承り、後々は御悔み草とも成るべしなり、よくよく御思案なられよとて又引き返し柏原に駆けつけさらぬ躰にて御馳走申上、D翌日関ヶ原迄見送りたてまつる
解 説
B
 上記の浅井三代記に書かれている「信長殺すべし」の内容をそのまま信用するのは如何かと思われるが、全くない話とも思われず、これを読む人の判断に任せたいが、このことを東浅井郡誌ではなかなか面白い表現を使っているので紹介しておきたい。
東浅井郡志
 「遠藤喜右衛門尉直経、この夜信長をその旅宿成菩提院(在坂田郡柏原)に襲うて之を殺さんことを乞いたれども、長政終に之を許さざりしとの美談を載す此事、或いは口碑伝説に本けるやも知れず、されど牧童終に狼に殺さるるの比喩に漏れず、之を事実として採用するの勇気なきを奈何せん」
解 説
C
 この時浅井長政が天下を取るという野望を持っていたかどうかは甚だ疑問で、おそらくは浅井三代記を書いた作者の意図的なものであろうと考えられるこうした誇張表現は軍記物にはよく見られるようである。
解 説
D
 浅井氏の家臣・遠藤喜右衛門等が関ヶ原まで信長を見送っていることから、この当時の浅井氏は関ヶ原辺りまで支配していたことが窺い知れる。
解 説
E

トップに戻る
■ 箕作城 ■
 東山道を上ってきた信長軍は愛知川近辺で野営をして、翌日箕作城を攻撃しているが、愛知川から箕作城まで、この間約3km。
信長軍がいくら大軍(三代記では数万騎,武功夜話では一万余騎とある)であっても2時間もあれば到着するはずである。しかるに箕作城を攻めているのは申の刻(現在の時刻で午後3時〜5時)であるのは、いかにも遅すぎる。まして旧暦の9月12日である。現在の暦にすれば10月の下旬。10月の下旬の3〜5時と云えば、夕暮れ間近である。どうして夕暮れ間近に攻撃を開始したのか、1日を争う状況の城攻めではなかったし、まして地理に暗い箕作山である。
これには、六角方が夕暮れも近く、今日は攻めては来るまいと油断している隙をついた、信長方の作戦ではなかったか。


 箕作城は元々六角承禎の居城であるが、観音寺城の陰に隠れてあまり取り上げられることがない。僅かに載っているものにも遺構は残っていないとされているが、現地には石垣や竪堀などが残っている。また、箕作山と繖山(観音寺城)の200〜300mほどの間を東山道(現在の国道8号線)が通っているのを見ると、六角氏が江南を押さえる要衝の地に居城を構えていたことがよく判る。

 信長による六角攻めが始まる数日前に、佐和山城で信長を待つ浅井長政の所へ六角方の武将達が内通してきていたとの記述が浅井三代記の" 信長卿浅井長政入洛付江南落城之事 "に見られる。
ここでも六角義弼が後藤但馬守父子を騙し討ちにした(観音寺騒動)ことが、六角氏家臣団の結束力を弱めた原因としている。
浅井三代記
信長、浅井長政入洛につき江南の城落ちること
 「永禄十一年九月六日に佐和山の城に至り信長卿を相待つ所に、江南所々の城主共浅井方へ内通して信長卿の御味方仕るべしという者多し、その日江南には承禎子息義弼事の子細候いて後藤父子を討ちしゆえ家中我がちになり箕作をうとみ果て浅井をたのみ来る者数を知らず、されども家老分は義を守る故か三好に心をかよわせけるゆえか降参すべき気色なし、 云々」
解 説
F

トップに戻る
■ 観音寺城 ■
 観音寺城のある繖山は周囲15kmにも及ぶ大きな山塊であり、山自体が峻険と云うわけでもなく、この城に籠もって戦うためには相当な守備兵力を必要とし、籠城するために造られた城ではないことははっきりしている。
この観音寺城を含めた六角氏の防衛思想は別に述べるとして、信長軍に箕作城を落とされた六角承禎は、遡ること80年あまり、長享元年(1487)に足利将軍義尚に観音寺城を攻められた六角定頼が城を捨てて甲賀へ逃げ、その後甲賀武士と共にゲリラ戦を挑んで勝利した策をとったと考えられ、六角承禎にとって居城を捨てることが敗北とは思っていなかったのではないか。
その後六角承禎は元亀四年(1573)に愛知郡鯰江城で敗れるまでの約5年間、甲賀郡および蒲生郡を拠点として、信長に抵抗し続ける。

 観音寺城は約400年間近江を支配してきた近江守護職・佐々木六角氏の居城で、分類的には中世城郭とされるが、その後信長が築城する近世城郭の安土城に先行する唯一の石垣造りの城として、非常に貴重な存在である。

 信長公記や言継卿記等で承禎父子が甲賀より伊賀に逃れたとあるが、浅井三代記の "浅井江南ノ路次ノ押ヘニ箕作ノ城ニ残ル事" では鯰江城に楯籠もりとある。
いずれが真実かは、さておき紹介しておく。
浅井三代記
浅井江南の街道の押えに箕作城に残ること
 「かくて信長卿は箕作城、観音寺城、長亭寺の城、八満山(八幡山)の城を初めて打ち破り通り給えども承禎は愛知郡鯰江の城に楯籠り、その他所々山々に楯籠もる所の城主共其の数を知らず、残り居るしかりといえども信長卿都へ御急ぎ成さるる故先道筋計りを追払い、同二十三日迄観音寺城に御座有りて長政に仰せ付けられけるは承禎父子の逆徒三好とかねて何事をはかり置くもしれざる也、その上義昭公の御共仕り某上洛せば近所なれば相坂邊へ馳集まり前後を包むべしと計り置くもしれざれば、貴殿は箕作城、観音寺城両城の留守を頼むなり 後に残り江南の城持共を味方にましくべしと仰せられければ長政承り、  云々」

HOME信長公記に見る近江の城郭

近江の城郭