和田山城
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 城郭の概要
所在地:東近江市五個荘町和田
別 名 : −
築 城 : −
初城主:六角氏
区 分 :山城
遺 構 :土塁,横堀,土橋,堅堀
城 域 :500m×100m
     標高 180m 
     比高 80m
戦 い :
永禄11年(1568)
  ○織田信長
     VS
  ●六角承禎


六角氏の家紋 四つ目結い



 現地への案内
交通機関は車を利用
国道8号線御幸橋西詰を北へ約1km、和田神社

 詳細位置はコチラ
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 駐車場
空地を利用

【訪 城】1999年9月,2002年8月
【撮 影】2002年8月
評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り





主曲輪虎口の空堀
主曲輪虎口の空堀

 現地の状況
 和田山城は六角氏の居城・観音寺城の東約2kmにあり、愛知川と大同川の合流点の西に位置する和田山(標高180m)の山頂付近に築かれている。
和田山城へは和田地区の和田神社、若しくは長勝寺町の長勝寺付近から登ることができる。

 和田神社の石段を登り詰め右手の登山道を辿ると"和田山城址"の石碑があり、ここから5分ほどで山頂に出る。道はしっかりしているが、この道は和田山城に登るためにつけられているわけではないので注意が必要。うっかりすると通り過ぎてしまい、もう一つのピーク(ここでは仮に“前山”としておく)の遺構と間違う可能性がある。
 前山の城郭遺構は現和田山城のものよりも年代的にも古く、和田山城の歴史を窺い知ることができる。

 和田山城は50m×100mほどの城域の周囲に土塁を廻らせ、南から馬出曲輪、主曲輪と連ね、主曲輪の背後に10m×10mほどの櫓台を配している。櫓台の背後にも2〜3段の曲輪があるが、これらの遺構は明瞭ではなく年代差を感じさせる。

 和田山城における縄張りには2つの特徴がみられる。
ひとつは主曲輪虎口前に、2〜3mの比高差をもって馬出曲輪を配し、主曲輪虎口の防御性を高めている点である。形状的には武田氏の丸馬出を連想させる。

 馬出曲輪の横を抜けると主曲輪の虎口に至る。虎口は平入り虎口(平虎口)であるが、前面に横堀を配し、土橋で導き入れる構造としているのが特徴のふたつ目である。

 歴史的にみて、六角氏の城とはっきりしている和田山城で、上記2つの特徴的な遺構が残されている意義は大きく、同じ東近江市の青山城井元城なども六角氏による築城,改修の可能性が考えられる。

 なお、前述した“前山”にも年代差はあるが城郭遺構であると断定できる遺構が残されているので、こちらも併せて観てほしい。
なお、和田山城の城域は比較的ブッシュが多いので、訪城する時期は落葉期が良い。

和田山城の縄張り概念図
和田山城の縄張り概念図

主曲輪虎口の空堀
主曲輪虎口の空堀

 城郭の歴史
 歴史的に、和田山城は六角義弼が築城し、田中治部大輔を守將にあてたとされ、永禄11年(1568)足利義昭を奉じて京に上る織田信長によって攻められ落城したとされている。

 六角義弼がこの和田山に城塞を築いた背景には織田信長の上洛阻止よりも、戦国大名化を果たした江北の浅井長政の南下に対する観音寺城の防衛強化、あるいは永禄3年(1560)野良田の戦い(彦根市)で江北の浅井長政に敗れた六角氏が、愛知川を仮想国境として国境警備のために築いたと考えるのが妥当ではないか。
従って、和田山城の築城年は永禄3年(1560)前後であろう。

 しかし、“前山”には明らかに現和田山城よりも古い城郭遺構が残されており、六角義弼以前にも城塞として和田山が機能していた可能性もある。

主曲輪の土塁
主曲輪の土塁
前山の曲輪遺構
前山の曲輪遺構

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