長光寺城(瓶割城)
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 城郭の概要
所在地:近江八幡市長光寺町
別 名 :瓶割城
築 城 :鎌倉時代中期 
初城主:佐々木四郎政堯 
区 分 :山城
遺 構 :一の丸,二の丸,米倉跡,井戸,石垣,堀切,土橋

面 積 :150mx150m
     標高 234,5m
     比高 120m
戦 い :
応仁2年(1468)
  ○六角高頼(西軍)
     VS
  ●六角政堯(東軍)
元亀元年(1570)
  ○織田信長
     VS
  ●六角承禎


歴代城主の家紋
六角氏の紋
四つ目結
(四つ目結)
柴田氏の紋
二つ雁金
(二つ雁金)

 現地への案内
交通機関は車を利用
国道8号線、六枚橋の信号を南入る約1km
妙経寺前、若しくは公民館

 詳細位置はコチラ mapfan
駐車場
妙経寺前の公園に約3台駐車可

【訪 城1999年7月,2000年8月,
     2008年1月

【撮 影】2008年1月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


野暮の独り言
 瓶割山の山中を歩くと、北方を意識した防御施設、南向き、あるいは西向きの防御施設と、この山が時代の経過と共にその時々の状況によっていろんな使われ方をしてきたことが窺える。

 しかし、石垣だけはどういう訳か、山の北面にしか築かれていない。これは何を意味しているのか。

 石垣が積まれている年代は、概ね永禄年間〜元亀年間、遅くても天正初期の安土城が築かれるまでである。
 その間に、この地域において軍事的な緊張があったのは、永禄11年に織田信長が近江に進行してきた時、および観音寺城を追われ、甲賀に潜んでいた六角承禎が元亀年間に織田信長に最後の戦いを挑んだ2回だけである。

 瓶割山の北面に石垣を築くとすれば六角氏の可能性が極めて高いのだが、高石垣を見る限り柴田時代と考えられる。

 そこには現代の我々が知らない戦いの歴史があるのかもしれない。




主曲輪北斜面の石垣
主曲輪北斜面の石垣

 現地の状況
 長光寺城は標高234mの瓶割山の山頂付近に築かれ、北側眼下をはしる中山道が八風街道と交わる武佐までは直線距離にして約1km。東近江における要衝の地にある。

 登り口は妙経寺横の不二滝、若しくは長福寺町の公民館前にある。どちらも山頂までは約25分程度。道はハイキングコースとなっており、案内板が立てられ判りやすくなっている。

 不二滝から登ると主曲輪西側の堀切に出る。堀切横の石垣は、高さ6mを越え城内最大のものである。
 長光寺城は15世紀中期に佐々木四郎政堯によって築かれたのを創築とし、その後は六角氏が入り、元亀年間には織田信長の家臣・柴田勝家が入っているが、この石垣は斜度をもたせて積んでいることから、後年の柴田勝家時代のものではないかと思われる。

主曲輪〜二の曲輪間の堀切
主曲輪〜二の曲輪間の堀切

 堀切の左(東)は主曲輪、右(西)は二の曲輪で、堀切に渡した土橋が非常に状態良く残っている。主曲輪は東西50〜60m、南北30mほどで、東尾根に三の曲輪を配置した連郭式の曲輪配置である。

 二の曲輪は主曲輪と同程度の広さと推定されるが、雑木が生い茂り広さを読み切れない。曲輪西側の尾根筋は堀切で処理し、虎口部は石垣が積まれている。

 主曲輪東側の三の曲輪は南側斜面に3〜4段の帯曲輪を配している。東尾根は堀切で処理されておらず、城域ラインは不明。

 この長光寺城は主曲輪以外の二の曲輪、三の曲輪にも石垣、石積みが見られる。特に主曲輪と三の曲輪の境界部分(井戸跡下)には一辺が50〜60cm、大きなものは一辺が1mを越える石が散乱しており、主曲輪の西虎口に見られるような石積みがされていたことを予感させるが、現地では確証がとれなかった。
 おそらく廃城の際に徹底して破壊されたのではないだろうか。信長公記には信長が安土城を築城する際、観音寺山(繖山),長命寺山,長光寺山,伊場山から石を集めたと記述されており、長光寺城の破城が暗示されている。

 城郭の歴史
 長光寺城の創築は応仁の乱の際に、佐々木四郎政堯が居城としたことに始まり、佐々木四郎政堯はこの城に拠って、観音寺城の宗家佐々木高頼に対抗した。

 その後六角氏や柴田勝家がこの城に拠り、天正4年(1576)安土城築城の頃には廃城になったと伝えられている。なお、長光寺城は別名を瓶割城とも呼ばれている。

安土山と繖山の遠望
安土山と繖山の遠望



八風街道
 八風街道は東近江市の八日市から鈴鹿山脈の八風峠を越えて桑名、伊勢に抜ける街道で、中山道を使って尾張に行くよりも距離が短いため、戦国時代にはよく利用された街道で、武将だけでなく日野や八日市の近江商人や伊勢桑名の商人、いわゆる「山越え商人」が利用した。

八風街道石碑
 上記石碑は八日市の八風街道と御代参街道の交差点に建てられてたもので、以下のように記されている・

右 京 むさ 八まん道
左 いせ ひの みなくち道
裏には、
右 多賀 ゑち川 ひこね道 


観光
旧西川家住宅
近江商人町の並み
 国の重要文化財に指定されており、江戸時代の町並みの面影を残しています。
近江八幡市新町2-22
TEL 0748-32-7048
入館料 大人300円


歴史民俗資料館
 森五郎兵衞の控宅で、近江商人(八幡商人)の往時をしのぶ帳場風景や生活様式をそのまま残し、そのほか多くの民俗資料が展示されています。

かわらミュージアム
かわらミュージアム

 日本国内では3つしか存在しない瓦専門の展示館。館内は八幡瓦を中心に展示されています。

観光得々情報
 観光パスポート 1,000円を購入すれば、市立資料館,歴史民俗資料館,旧西川住宅,旧伴家住宅,八幡山ロープウェー,かわらミュージアム、およびアートギャラリーの入場が無料。(すべての施設入場料を単独で購入するより700円お得!)

発売場所:近江八幡駅北口観光案内所、および白雲館観光案内所

お勧めの宿
グリーンホテルYES近江八幡

近江八幡市中村21-6
TEL 0748-32-8180
シングル 5,900円 /室

ホテルニューオウミ

近江八幡市鷹飼町1481
TEL 0748-36-6666
シングル 8,000円 /室

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近江八幡市鷹飼町114-3
TEL 0748-37-3801
シングル 7,000円 /室

ホテルはちまん

近江八幡市桜宮町285
TEL 0748-33-1771
シングル6,300円 /室


----- 瓶割城の由来 -----

 元亀元年(1570)織田信長は若狭から越前に攻め入った。朝倉氏の支城である疋壇城手筒山城を落とし、まさに金ヶ崎城を落とす寸前、離反した浅井長政に背後を突かれた信長は急きょ越前から京へ退却。

 体制を立て直すべく岐阜への帰国に千種越峠を選んだ信長は、六角承禎の命を受けた杉谷善住坊によって狙撃を受けた。これを機に信長は同年5月、信長は諸将を江南の城に配した。長光寺山の守備を命ぜられた柴田勝家は、長光寺城に入り城を改修した。

 同年6月、伊賀に潜んでいた六角承禎は敗残の兵を集め、一向一揆を扇動し、浅井とも同盟を結んで5000余の軍を率い、柴田勝家の立て籠もる長光寺城を包囲した。勝家は800余名の兵と共に城を堅く閉じ、ひたすら籠城策をとった。

 これを攻めあぐんだ六角承禎は城の水源を断ち、ころを見計らって配下の平井勘助を使者に出し城内の様子を探らせた。ところが案に反して城中では水は潤沢で、馬のからだを水で洗うという豪勢さであった。

 これは勝家の苦肉の策で、実際のところは飲料水にも事欠く有様であった。こうして六角勢の意気を挫いた勝家は同6月23日を期して城を打って出ることとし、その前日、籠城戦と食料の欠乏でゆるんだ志気を高めるために、勝家は城兵を前にし、長刀の柄で最後の水を貯めた瓶を割って見せた。
 つまり、このままむなしく死を待つか、それともここを先途と打って出て活路を開くか、この決断を促したのである。

 23日未明、 総勢800余名を引き連れた勝家は城門を開くと、山を揺るがすばかりの鬨の声をあげて六角軍の本陣をめがけて、打って出た。不意をつかれた六角軍は総崩れとなって、300余名が戦死したという。
 この時以来、柴田勝家のことを「瓶割り柴田」と呼び、長光寺城のことを「瓶割城」と呼ぶようになった。



主曲輪〜二の曲輪間の土橋
主曲輪〜二の曲輪間の土橋


主曲輪西側虎口の石積み
主曲輪西側虎口の石積み


三の曲輪北斜面の石垣
三の曲輪北斜面の石垣

主曲輪
主曲輪


主曲輪東虎口下に散乱する巨石
主曲輪東虎口下に散乱する巨石


二の曲輪虎口の石垣
二の曲輪虎口の石垣
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