近江 壺笠山城
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 城郭の概要
所在地:大津市坂本町
別 名 : −
築 城 :元亀元年(1570)
初城主:浅井・朝倉氏
区 分 :山城
遺 構 :虎口,石積み
城 域 : −
     標高 421m
     比高 約320m

 現地への案内


登城口は穴太駅より南へ200m、京阪バス穴太停留所を西に入る、穴太三丁目


県道47号線(伊香立浜大津線)穴太駅前から西へ約1.5km
詳細位置はコチラ 

 駐車場
財団法人 泉会、琵琶湖老人の家の前の空地に駐車

【訪 城】2005年5月
【撮 影】2005年5月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★★
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


主曲輪の石積み

 現地の状況
 壺笠山城は坂本城と共に、近江坂本から京都一乗寺へ抜ける白鳥越えのルートを押さえる位置にあり、元亀元年の姉川の戦い後も続く元亀争乱の中、浅井・朝倉軍が立て籠もった城である。

 当時、近江から京へ出るには、逢坂山越え、山中越え(志賀越え),途中越、そして白鳥越えと四つのルートがあったとされるが、白鳥越え以外のルートは、拡張・舗装されて車でも通行が可能である。
 一方、白鳥越えのルートは、坂本から壷笠山の北側を通り、京都一乗寺へ抜けていると考えられるが、そのルートの全貌は明確であるとは言い難い。

 今回、壷笠山城へ登るにあたっては、この白鳥越えルートを確認することも目的のひとつとした。白鳥越えのルート確認にあたっては、国土地理院の地図に描かれている穴太駅の南から谷を詰めて、尾根筋に上がり、忠兵衛山の山腹をまいて壷笠山北側の鞍部に出るルートを選択した。

 住宅地の外れから山中に入る。登りはじめは道らしい道もなく、これが白鳥越えか?と思いつつも斜面を登ると、広範囲にわたって階段状の削平地が現れる。横堀状の地形も認められ、「浅井・朝倉軍が築いた陣跡か」と考えつつ谷を詰める。

 谷を詰めるに従って道は徐々に細くなり、尾根に出るには直登、藪こぎを強いられた。約40分で尾根上の高圧線鉄塔の下に出る。案の定、尾根には道があったが、国土地理院の地図に描かれたルートを辿り、白鳥越えのルートを探るのが目的でもあるので、今日の藪漕ぎは苦にならない。むしろ、ここまで国土地理院に記載されているルート通りに登ってきたことに、満足感を覚えた。

 ちなみに、今後この谷筋を詰めるルートを辿って登られる方のために、歩きやすい道を紹介しておく。住宅地奥から山中に入り、比高差約100m、時間にして15分ほど登って、削平地を通り越した辺りから関西電力のメンテナンス道が付けられている。この道を登ると簡単に高圧線鉄塔下に出ることが出来る。
 尾根に出てからは、この道こそが白鳥越えではないかと思われる道を辿り、約1時間で壷笠山と忠兵衛山の鞍部に出た。そこには、広い林道が・・・・・。(^^;)
地図で確認する限りでは、滋賀里から延びている道がこの林道ではないかと思われる。

 壷笠山への登り口は、鞍部から東へ20〜30m、青いテープが目印。道を間違わなければ、しっかりとした登山道を約15分足らずで、壷笠山の山頂に着く。道を間違えると斜度45度の道なき斜面を藪漕ぎをしながら比高100mほどを登ることになる。(^^;)  

 壷笠山の山頂は雑木のために全体像が掴みにくいが、主曲輪は直径25m程度の円形をしており、主曲輪周囲には帯曲輪を廻している。この山自体が古墳だというから、山頂を削り下げて曲輪にしたのかも知れない。
壺笠山鞍部の林道

 主曲輪や帯曲輪にも土塁はなく、虎口の位置は分かり難いが、主曲輪の北東に石造りの階段があり、ここが主曲輪の虎口であることが分かる。南東にも虎口らしき形状が認められる。主曲輪周囲の帯曲輪には、至る所に人頭大の石が散乱しており、主曲輪の切岸には石積みがあったのではないかと推測される。
 その推測通り帯曲輪の西側切岸には、人頭大の石で積んだ石積みが長さ15mほどにわたって残っている。また西側斜面には6〜7段の曲輪が配置され、3段目の曲輪切岸にも石垣が確認できる。 壷笠山は独立峰で、南側斜面は断崖、東と北側斜面は斜度がきついが、西側だけは支尾根が延び、支尾根を下ると京都方面へと道は続いている。

 今回、壷笠山城へ登った目的のひとつが、白鳥越えのルートの確認であったが、国土地理院の地図に書かれているルートを歩いて、得られた結論はルートの後半部は白鳥越えであろうとの確信を得るに至ったが、前半部の谷を詰めるルートは白鳥越えの間道ではないかと考えられる。
 というのも、谷を詰めるに従って道は細くなり、尾根に上がる手前では獣道のようになること。また、谷から尾根道に出るに斜面に至っては、道のない状態で、白鳥越えが400年以上昔に使われた道とはいえ、過去に利用された道とは云えないからである。

 では、白鳥越えの前半ルートは、どこかということになるが、高圧線の鉄塔の建てられている支尾根を上り詰め、忠兵衛山の山腹を巻くようにしてルートが西向きに変わる地点で、平子谷方面に通じていると考えられるルートと合流する。おそらくは、この平子谷へと通じる道が白鳥越えではないか。

 下山してからの情報であるが、平子谷の青年の家近くから壷笠山へ登るルートがあると聞く。また、壷笠山への登山口には案内板もあるという。私が平子谷の林道入口まで行った時には、青年の家に続く林道には鎖がかかっていて、車で入ることは出来なかった。
 通行止めされている手前に車を1台置くスペースがあるので、ここから約500mほど歩くと壷笠山の真東の登山ルートに出るはずである。
 断っておくが、私は林道の入口までしか行っていないので、登られる場合は自己責任でお願いしたい。

 また、住宅地から山中に入ってすぐに現れる曲輪群について、私は浅井・朝倉軍が築いたものではないかと直感したが、滋賀県教育委員会発行の「淡海の城」に記されている”大手道の曲輪群”は、これらの遺構を指しているのか。だとすれば、今回壷笠山まで私が辿ったルートは、大手道と云うことになる。

 滋賀県教育委員の資料に記されていることを全て信じるわけではないし、大手道と白鳥越えが一致する必要性はないのだが、私自身平子谷ルートを登っていないだけに、結論を得る迄には至らない。
 こうした点も含めて、情報、あるいはご意見をいただければ幸いである。

壷笠山と忠兵衛山の鞍部の林道

 城郭の歴史
 信長公記には「志賀御陣の事」として以下のように記されている。

-------------信長公記 志賀御陣の事-------------
九月廿四日 信長公、城都本能寺を御立ちなされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体(ていたらく)にて、叡山へ逃げ上り、はちヶ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り候。
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帯曲輪の石積み


西側斜面の石積み

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