近江 鳥居平城(とりひらじょう)

【城郭の概要】

所在地:蒲生郡日野町鳥居平  
別 名 : −
築 城 :室町時代
初城主:寺倉氏
区 分 :平山城 
遺 構 :土塁,空堀,竪堀,
     堀切
面 積 : −

小倉氏の紋
梅鉢紋
梅鉢

堀切
@の曲輪とAの曲輪間の堀切
現地への案内
・交通:国道477号線河原1の信号を約2km北上、鳥居平地区

詳細位置はコチラ mapfan

・駐車:鳥居平公民館の駐車場を利用
・撮影:2008年3月
遺構の保存状態 ★★★
遺構確認し易さ ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度 ★★★

★の数の多い方が良い(または、激しい)
現地の状況
 鳥居平城は比高20〜30mの急峻な丘陵地に築かれた平山城であるが、規模と普請、および遺構の保存状態では、近江の城郭の中でも屈指のものである。
 城郭は小さな丘陵地をめいっぱいに使い、東西の長さは500mに及び、山中の遺構は400〜500年経過しているにもかかわらず、その縄張りが中途半端でないことが伺いしれる。

 尾根上に一辺が20m〜40mの方形の曲輪を東西一列に配し、曲輪と曲輪の間には山肌を垂直に切り落とした箱堀状の堀切、あるいは薬研堀を入れ、バリエーションに富んでいる上、土塁で形成した虎口を巧みに使い、堀切に導き入れるなど技巧的な面も窺える。

 なお、鳥居平城からは北約1.5kmの長寸城、北西約1.5kmの佐久良城など、小倉氏の城砦を遠望することができる。
縄張り図
縄張り図

【城郭の歴史】
 鳥居平城は大字鳥居平の東に連なる丘陵尾根上にあって、戦国期に築かれた山城の遺構が東西500mにわたって、ほぼ原形のままで残されている。

 鳥居平城に関しての文献史料は少なく、史跡全体は中世の築城様式特有の土塁をめぐらす曲輪が十ヶ所以上あり、峻険な堀切が数ヶ所に設けられ、広大な城であったことが窺える。

 この城の城主は寺倉氏(寺倉氏は蒲生氏の支流)であったと伝えられているが、歴史的な経過などは不明である。
 しかし、桜谷を支配した清和源氏の末裔・小倉氏が、鳥居平城の築城に関わっていたであろうとが推察される。
 なお、小倉氏は承暦年代(1077〜1080)に小倉景実が愛知郡小椋庄に小倉城を築いたのを初めとして、愛知,神崎,蒲生三郡の東部に勢力を伸ばした。

Aの曲輪から遠望する長寸城

Aの曲輪から遠望する佐久良城

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曲輪と土塁
Aの曲輪と土塁
Aの曲輪の東側には土塁が廻らされ、土塁の向こうは高さ10m、幅20mを越える堀切を介してBの曲へと続く。鳥居平城の場合、主要な曲輪の独立性が保たれているのが特徴といえる。


横堀と土塁
Aの曲輪とBの曲輪間の横堀と土塁
堀切から横堀へ展開し、横堀に沿って土塁が築かれている。この堀も堀底道として使われていたことがわかる。

一騎駆け
Eの曲輪にある曲がりくねった一騎駆け
 一騎駆けといえば常識的には直線的だが、鳥居平城の一騎駆けは、曲がりくねっており、このような一騎駆けを観たのは初めてで、一瞬度肝を抜かれた。


城中最大の堀切
Aの曲輪とBの曲輪間の堀切
城中最大の堀切で、この堀切は横堀へと展開され、また堀底道としても使われている。
堀を道として使う考え方が随所に観られ、これも鳥居平城の特徴のひとつである。

池
Eの曲輪の池
おそらく飲料用に使われていたと考えられるが、池の大きさが中途半端ではない、またこうした池が山中のは至る所にあり、城域の広さと相まって、鳥居平城は大軍を収容していたであろうことが容易に想像できる。

虎口と堀切
Eの曲輪下の虎口、虎口向こうは堀切
曲輪下の道は、土塁で形成された虎口へと導かれる。この虎口を抜けると、すぐに堀切に接続されており、両側の曲輪から挟殺される構造となっている。

近江の城郭