虎御前山砦
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 城郭の概要
所在地:東浅井郡湖北町河毛
別 名 : −
築 城 :元亀3年(1572
初城主:織田信長
区 分 :山城
遺 構 :土塁,竪堀,石垣
城 域 : −
     標高 218.6m
      比高 110m
戦 い :天正元年(1573)
○織田信長 VS ●浅井長政・朝倉義景




 現地への案内

 国道365号虎姫町
詳細位置はコチラ 

 駐車場
虎御前山キャンプ場駐車に約30台、駐車場から約30分(信長陣地跡まで)
【訪 城】1999年8月,2005年7月
【撮 影】1999年8月,2005年7月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

蜂屋頼隆の砦
蜂屋頼隆の砦


南方から望む小谷山と虎御前山
南方から望む小谷山と虎御前山
 現地の状況

 虎御前山は標高224mの独立丘陵で八相山ともいい、山中には古墳時代から奈良時代にかけての古墳や前方後円墳の遺構が数多く残っている。
 元亀元年(1570)に織田軍の蜂屋頼隆陣は北山古墳に築いており、元亀3年には織田信長以下、堀秀政、木下秀吉、滝川一益などの諸将も小谷城攻撃のために陣城を築いているが、いずれも古墳を利用したものである。

 虎御前山砦の全体像は、信長の砦跡とされる曲輪を中心として南側(滝川一益と堀秀政の陣城)は陣城は堀切と竪堀を使っての防御、北側(羽柴秀吉、柴田勝家の陣城)では切岸主体の防御と大別することが出来る。
 また、秀吉陣の北側(小谷城側)には土塁を巡らし、虎口部には空掘を配している。近江において織田軍が入ったとされる城では、おおよそ横堀を観ることは無い。その点では、この秀吉陣の横堀は興味深い。

 勿論、後年の改修も考えられる。例えば、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いにおいて秀吉軍が北国脇往還道を押さえるために築いた可能性もあるが、虎御前山城の横堀の使い方は虎口防御という点からは稚拙な配置で、天正11年の賤ヶ岳の戦いにおける秀吉方の改修とは考え難く、元亀元年の織田軍によるものと考えるのが妥当であろう。
 最前線の柴田勝家陣から見る小谷山南端の出丸は、肉眼でも人の動きを確認できそうな距離で、虎御前山砦がまさに付城として機能していたことを実感する。

 現地の各曲輪には陣を構えた武将の碑が建てられているが、最高部の織田信長陣は間違いないと思われるが、元亀年間に木下籐吉郎の陣が織田信長のすぐ下で、筆頭家老の柴田勝家陣が籐吉郎よりも低い位置に築かれていたことはあり得ない。
 木下籐吉郎(後の羽柴秀吉)が織田家臣団の中で柴田勝家と同等の地位を築くのは、本能寺の変の後山崎の戦いで明智光秀を討った後である。
 ここでも、勝利者・秀吉の歴史が史実として伝えられているように感じた。
虎御前山の陣城
虎御前山の陣城



羽柴秀吉陣の横堀
羽柴秀吉陣の横堀


柴田勝家陣から小谷山を望む
柴田勝家陣から小谷山を望む
 城郭の歴史
 元亀元年(1570)姉川の戦いで勝利した織田信長は、横山城を拠点に元亀3年に浅井氏の居城・小谷城の南、虎御前山に砦を築き、浅井・朝倉攻めが本格化する。
 信長公記によれば、虎御前山の砦は7月27日に築城を開始し、8月8日過ぎには完成したとあり、2週間を要しているが、これは信長の「座敷」を完成させるのに要した期間で、砦そのものはもっと早い段階で完成していたと見るのが妥当だろう。





観光
浅井歴史民俗資料館(お市の里)
長浜市大依町528
TEL 0749-74-0101

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湖北町水鳥公園
東浅井郡湖北町尾上
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 湖岸約2.5kmを水鳥公園として整備されたもの。野鳥センターや観察小屋、観察路などの設備を利用すれば、誰でも気軽にバード・ウォッチングが楽しめます。 


お薦めの書籍
お勧め度












信長公記より 〜奇妙様脚具足初めに、虎後前山御要害の事〜

 七月十九日、信長公の嫡男奇妙公御具足初に信長御同心なされ、御父子江北表に至りて御馬を出だされ、其の日、赤坂に御陣取り、次の日、横山に御陣を居え られ、廿一日、浅井居城大谷へ推し詰め、ひばり山、虎後前山へ御人数上せられ、佐久間右衛門、柴田修理、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、蜂屋兵庫頭に仰せつ けられ、町を破らせられ、一支もさゝへず推し入り、水の手まて追ひ上げ、数十人討捕る。柴田修理、稲葉伊予、氏家左京助、伊賀伊賀守、是れ等を先手に陣と らせ、次の日、阿閉淡路守楯龍もる居城山本山へ、木下藤吉郎差し遣はされ、麓を放火候。然る間、城申の足軽ども百騎ばかり罷り出で、相支へ候。藤吉郎見計 らひ、どうと切りかゝり切り崩し、頭数五十余討ち捕る。信長公卿褒美斜ならず。

中略

 七月廿七日より、虎後前山御取出の御要害仰せつけらる。然れば、浅井方より越前の朝倉かたへ注遺の申し様、尾州、河内長島より、一揆蜂起候て、尾・濃の 遺路をとめ、既に難儀に及ぼせ候間、此の節、朝倉馬を出だされ候へば、尾・濃の人数悉く討ち果たすの由、偽り申し遣はし候。注進、実に心得、朝倉左京大夫 義景、人数壱万五千計にて、

中略

 八月八日に、越前の前波九郎具衛父子三人、此の御陣へ参ぜられ候。信長公の御祝着斜ならず。則ち、御唯・御小袖・御馬・皆具ともに拝領中され候。翌日 又、富田弥六・戸田与次・毛屋猪介、参られ候。是れ又、色々下され、忝き次第、大方ならず。虎後前山御取出御普請程なく出来訖んぬ。御巧を以て、当山の果 気、興ある仕立、生便敷御要害見聞に及ばざるの由にて、各耳目を驚かされ候。御座敷より北を御覧せられ候へば、浅井・朝倉、高山大づくへ取り上り、入城 し、難場の峠に及ぶ。西は海上漫々として、向かひは比叡山八王寺、昔は尊き霊地たりといへども、一年、山門の衆徒など逆心を企て、白業自果の道理を以て、 山上山下灰燼となさんと、是に御憤を散ぜられ、御存分に仰せつけられたる所なり。又、南は志賀・唐崎・石山寺、彼の本尊と申すは大国震旦までも隠れなき霊 験殊勝の観世音。往昔、紫式部も所願を叶へ、古今 翫所の源氏の巻を注しをかれたる所なり。東は高山伊吹山、麓はあれて残りし不破の関、何れも眼前に及ぶ ところの景気。又、文夫なる御普請、申し尽しがたき次第なり。虎ごぜ山より横山までの間三里なり。程遠く候間、其の繋ぎとして八相山・宮部郷両所に御要害 仰せつけらる。宮部村には宮部善祥坊を入れをかせられ、八相山には御番手の人数仰せつけらる。虎後前山より宮部まで路次の一段あしく候。武者の出入りのた め、道のひろさ三間、間中に高々とつかせられ、其のへりに敵の方に高さ一丈に五十町の間、築地をつかせ、水を関入れ、往還たやすき様に仰せつけらるる事 も、おびただしき御要害、申すら愚かに候。朝倉此の表に候ても苦しからず候間、横山に至って、信長公御馬を納めらるべきの旨に候。其の一両日以前に、朝倉 かたへ使者を立てさせられ、迚も是れまで出張の事に候間、日限をさし、一戦をもって果てられ候へと、堀久太郎を以て仰せ遣はされ候と雖も、中々返答に及ば ざるの間、虎後前山に羽柴藤吉郎を定番として、入れおかる。


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