近江 曽我城
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 城郭の概要
所在地:犬上郡多賀町基礎字曽我
別 名 : −
築 城 :文明17〜18(1484〜85)年頃
初城主:曽我兵庫允師助
区 分 :館
遺 構 : −
城 域 : −

 現地への案内

国道306号線木曽地区
詳細位置はコチラ 

 駐車場
【訪 城】2008年9月
【撮 影】2008年9月

評価項目 見所評価
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



曽我城跡に建つ曽我神社
曽我城跡に建つ曽我神社

 現地の状況
 曽我城址には曽我祐重と師助を祀る曽我神社が建てられている。
境内には曽我兵庫允の碑があり、隣接する旧永晶庵の墓地には曽我氏代々の墓石がある。

 また、近隣の開蓮寺は赤田氏の菩提寺で、境内には赤田家遺跡之碑が建てられている。
この碑は讃岐丸亀藩最後の藩主・京極朗徹の孫である京極高修子爵によって書かれたとある。赤田家と京極家の繋がりは相当に深いものがあったということか。

曽我氏代々の墓
曽我氏代々の墓石

 城郭の歴史
 曽我城は、文明17〜18(1484〜85)年頃に曽我兵庫允師助が久徳郷の背後の山裾に築いたものとされる。

 曽我氏は恒武平氏の嫡流である平良文の曽孫・千葉介常将の子・常信が相模国足柄郡曽我郷に移り住んだことに始まる。
常信の孫・祐信の子が“曽我の仇討ち”で有名な十郎祐成、五郎時致(ときむね)兄弟である。

 時致(ときむね)の孫に当たる祐重が承久の乱の際、北条義時に属して宇治川の合戦で討死にした功により、子祐盛に犬上郡久徳郷曽我の地頭職が与えられた。

 応永年間(1393〜1427)多賀庄に京極道誉の勢力が伸びるおよんで曽我氏は衰退し、替わって赤田信濃守高が越後から赴任して曽我城を本拠とした。

 多賀氏が勢力を拡大すると赤田氏は河瀬庄八丁村の八丁城(八町城)に移り、曽我城は廃城となった。
その後、久徳郷に城を構えたのが久徳城主・多賀二郎定高である。


赤田家遺跡の碑

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