近江 佐和山城
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 城郭の概要
所在地:彦根市鳥居本町
別 名 :佐保城
築 城 :建久年間(1190〜99)
初城主:佐保時綱
区 分 :平山城
遺 構 :土塁・堀切・竪堀・井戸・門跡・石垣
城 域 :1000m×700m
     標高 212.9m 
     比高145m

戦 い :
天文7年(1538)

  
○六角定頼,京極高慶
     VS
   ●浅井亮政,京極高延
天文21年(1552)

  
○浅井久政,京極高広
     VS
   ●六角義賢
永禄2年(1559)

  
△浅井長政
     VS
   △六角義賢
永禄4年(1561)

  
△浅井長政
     VS
   △六角義賢
元亀2年(1571)

  
○織田信長
     VS
   ●浅井長政
慶長5年(1600)

  
○徳川家康
     VS
   ●石田正継,石田正澄

六角氏の紋
四つ目結い
(四つ目結)
京極氏の紋
四つ目結い
(四つ目結)
浅井氏の紋
三つ盛亀甲
(三つ盛亀甲)
石田氏の紋
九曜紋
(九曜星)

 現地への案内
交通機関は車を利用
 国道8号線、佐和山トンエルの西から東山ハイキングコース、または龍潭寺から
 詳細位置はコチラ mapfan
 駐車場
 佐和山トンネル西に3台ほど駐車可
 龍潭寺には約30台ほどの専用駐車場あり

【訪 城】1996年6月,2007年12月
【撮 影】1996年6月,2007年12月
評価項目 見所評価
選地 ★★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ★★
お勧め度 ★★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

観光
 彦根城京橋口に出来た町並み・夢京橋キャッスルロード

佐和山城の移築建物
宋安寺
 佐和山城の大手門が彦根市本町二丁目の宋安寺の表門として残っている。
宋安寺は徳川家の菩提を弔うために建立されたもので、門の再利用が判らぬようにと、朱塗りにされ、今も赤門の通称で市民に親しまれている。

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高源寺の総門
犬上郡多賀町楢崎374
 多賀町高源寺の総門は佐和山城の裏門といわれている。
 また、幕末に開国の主役を演じた大老井伊直弼と、それを助けた長野主膳に献身して、二人の死後68歳で死ぬまで直弼、主膳の菩提を弔い続けた村山たかの肖像画があります。

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龍潭寺
滋賀県彦根市古沢町1104
TEL:0749-22-2777
入山料:大人400円

 井伊氏の始祖、藤原共保(ともやす)以来の井伊家の菩提寺で、奈良時代行によって遠江国(静岡県)井伊谷に開基された、臨済宗妙心寺派の寺院です。井伊直政が佐和山城主になったのを機に、昊天(こうてん)が佐和山(232.5m)山麓に移築した。
 龍潭寺の山門は佐和山城の城門を移築したもの。また、井伊直弼や小堀遠州が茶の湯を楽しんだ飄々庵(ひょうひょうあん)の茶室は、佐和山城の城門を利用したと伝えられている。
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清凉寺
滋賀県彦根市古沢町1100
TEL:0749-22-2776

 井伊家の菩提寺として、また父井伊直政の墓所として直孝が開基した曹洞宗永平寺派の寺院で、本堂裏の高台には歴代藩主の宝篋印塔がある。なお、この寺は石田三成家臣・島左近の屋敷跡に建てられている。
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大手土塁と佐和山遠景
大手土塁と佐和山遠景

 現地の状況
 佐和山城は鈴鹿山系が琵琶湖に向かって大きく張り出した先端の山(佐和山)に築城されています。この地域の地形は鈴鹿山系と琵琶湖との間がわずか2km程で、いわゆる陰道の要所となっていることから、戦国期に幾度となく佐和山をめぐって争奪戦が繰り返されてきた。
 天正18年(1590)、佐和山城主となった石田三成と佐和山城のことを、「三成に過ぎたるものがふたつあり、島の左近と佐和山の城」 と詠われているのも、佐和山をを押さえることで、江北,江南のみならず、中山道や北国街道をも押さえることが出来た要衝の地にあったことを示してる。

 石田三成時代の佐和山城は、対徳川の城として機能しており、城の大手道は佐和山の東側、つまり鳥居元方面にあった。
彦根方面から国道8号線で佐和山トンネルを抜け、坂を下った左手に、石田三成公顕彰会が建てた大手道の表示がある。

 登城する場合、大手道から上るルートは下草やブッシュが激しく、あまりお勧めできない。龍潭寺裏、あるいは彦根トンネルの脇からの東山ハイキングコースを利用するのが一般的である。
 とはいうものの、本当の佐和山城の姿を知るには大手道三の丸〜二の丸を経て本丸へのルートが歩くのがよいでしょう。ただし、藪漕ぎをするなどそれなりの覚悟が必要となる。(^^)
佐和山城縄張り
佐和山城の縄張り

 城郭の歴史
 佐和山に城が築かれた歴史は古く、1190年に近江守護職佐々木定綱(近江源氏の祖)の六男佐保六郎時綱が、初めて佐和山に砦を築いたのが始まりと云われている。
 その後、佐々木六角家と佐々木京極家、浅井家の領地争いが、愛知川あるいは佐和山付近を境界として繰り広げられたため、佐和山城は“境目の城”として争奪戦が繰り返された。

 その佐和山城が歴史の表舞台に登場するのが、元亀元年(1570)6月、姉川の戦いで敗れた浅井方の武将・磯野員昌が兵士300名を引き連れ敵中突破の末、佐和山城に楯籠もった籠城戦である。

 磯野員昌の籠城に対し、織田信長はすぐに落とせないとみるや、佐和山城の周辺に丸山砦等、4つの付城(つけじろ)を築き、佐和山城を孤立させた。
 しかし、磯野員昌の立て籠もる佐和山城を落とすことは容易ではなく、織田軍は浅井方に磯野員昌が織田方に寝返ったとの流言を流すことで、ようやく佐和山城を開城させた。
 織田軍が佐和山城を開城させたのは、磯野員昌が籠城してから実に8ヶ月後のことであった。
千貫井戸
千貫井戸
 本能寺の変の後、羽柴秀吉は佐和山城の良好な立地を踏まえて、天正11年(1583)に堀秀政に5万石を与えて守備させ、天正13年には堀尾吉晴、同18年には石田三成を19万石で城主とするなど、いずれも自分の腹心を入れ東方への備えとしている。

 三成時代の佐和山城を謳ったものとして、「三成に過ぎたるものがふたつあり、嶋の左近に佐和山の城」と伝えられています。嶋左近は、三成がまだ近江水口岡山城主4万石の小身大名だった頃、故あって浪人中だった元大和筒井家家老の島左近勝猛を2万石という前代未聞の条件で家臣に迎えたと云われる知勇兼備の名将であり、佐和山城も嶋左近と並び称される名城であるという意味である。
 “三成に過ぎたるもの”として謳われた佐和山城は、慶長5年(1600)9月に最後の戦いを迎えることになります。天下分け目の戦いと云われる関ヶ原の戦いに出陣していた三成の留守を、父・正継と兄・正澄らが2,800の兵とともに守っていたが、西軍を破った東軍の主力部隊に包囲され、所詮は多勢に無勢、開城することとなる。

 三成に替わって佐和山城に入ったのが井伊彦根藩の藩祖・井伊直政で、暫くは居城として使うが、慶長8年(1603)に父直政の遺志を受け継いだ直勝が佐和山から南西約1kmの彦根山に彦根城を築城する際に、佐和山城内の石垣は彦根城築城の石材として運び出し、更には善政をしいて領民達に信望の厚かった石田三成の居城である佐和山城を徹底的に破壊することで、領民達に井伊家への帰属意識を高めようとする。

 一説には山を高さ十四mにわたって削り取ったとも伝えられ、佐和山の山の形が台形状をしているのは、このためだとも云われている。
 当時の佐和山城には五層の天守閣が建てられていたと云われているが、徹底的に破壊されたために、現在の本丸には昭和40年代に発見された天守台の石垣と考えられる2つの隅角石と、平成に有吉氏が発見したわずかばかりの石垣が残っているだけである。

 なお、二の丸には火炎によって変色したと思われる褐色色の瓦が散乱しており、佐和山城に礎石は見つかっていないが、瓦葺きの建物があったことを裏付けている。

本丸の石垣
佐和山城天守台の石垣


新たに有吉氏が発見した石垣
新たに有吉氏が発見した石垣

 戦国時代から江戸初期の元和元年(1615)の「一国一城令」までに廃城となった城は全国に数多くあるが、この佐和山城ほど徹底的に破壊された城も珍しく、徳川政権が、あるいは井伊彦根藩が石田色の消すのに必死になったという証でもあり、佐和山城に残された僅かな遺構からは、戦国期の戦うための城とは違った、江戸期における城の有り様というものを教えてくれる。

 現在、佐和山城の大手を北側(鳥居本側)とするのは、豊臣政権下で石田三成が居城としていた時代の縄張りを色濃く残している。

 佐和山山頂を本丸とし、西尾根に西ノ丸、東尾根に太鼓丸、千畳敷、法華丸を配し、山頂から北側に派生する尾根上に二ノ丸、および三の丸を配し、大手道から観る曲輪配置は鶴翼の構えのようで、特に、二ノ丸は山頂の本丸からは比高差にして50mほど下がった位置にあって、谷筋を通る大手道を見下ろす守備上の最重要拠点である。

 二ノ丸は尾根と直行する形で東西に4つの曲輪を連ねた曲輪群を総称しており、最高部にある曲輪を中心として、西側曲輪の西端には櫓台を設け、西側支尾根には城内最大の堀切が配されている。また、東端の曲輪と中央の曲輪間にも堀切を入れた独立性の高い縄張りで、二ノ丸だけでも小さな城郭の規模と防御の備えがある。


佐和山城をもっと紹介

佐和山城から遠望する彦根城
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二の丸西側の堀切
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二の丸に散乱する瓦
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二の丸西側曲輪の櫓台
二の丸西側曲輪の櫓台


二の丸東側の堀切
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