近江 佐生城
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 城郭の概要
所在地:東近江市佐生町
別 名 : −
築 城 : −
初城主:後藤氏
区 分 :山城
遺 構 :石垣,土塁
城 域 :60m×50m
     標高 158m 
     比高 約70m 


 現地への案内
交通機関は車を利用

 詳細位置はコチラ
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 駐車場
佐生町新浄土橋付近の空地に2〜3台駐車可
北向岩屋観音石段下に4〜5台駐車可


【訪 城】1999年10月,2008年1月
【撮 影】2008年1月
評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

主曲輪西面の石垣
主曲輪西面の石垣

 現地の状況
 佐生城は六角氏の重臣・後藤但馬守賢豊の居城で、観音寺城が築かれている繖山の南東尾根の先端、比高約70mほどの尾根上に築かれており、観音寺城の東端の防御拠点であるともいえる。
 地形的には、繖山に沿って東西に流れていた瓜生川が、山塊がとぎれるこの地点で流れを北に変える。この地形を利用して、南側と東側は瓜生川が堀の役目を果たしている。

 大手道は東近江市佐生町の瓜生川に掛かる新浄土橋南側から登るルートで、約15分ほどで佐生城に至る。
 もう一つのルートは能登川高校の前から北向十一面岩屋観音への石段下まで車で乗り付け、案内板に沿って尾根を東に下れば10分足らずで佐生城に至る。こちらが搦手道で、北向岩屋観音から尾根を西に登れば地獄越えを経て観音寺城の沢田邸に至る。

 佐生城は35m×25mほどの主曲輪を中心に北の支尾根に2段、主曲輪東側にも曲輪を配している。曲輪の削平状態はお世辞にも良いとはいえないが、主曲輪西面と南面には石垣が積まれている。
 特に西面の石垣は巨石を4mほどの高さに積み上げ、隅角は算木積みがなされ、スケールや技法的にも観音寺城の石垣と比較しても遜色がない。
ただ、長さ35mほどにわたって築かれた石垣は山の地形に沿って湾曲しており、また曲輪の削平状態からも本格的な城つくりがされているとはいい難い。
 主曲輪の西と東には平虎口が設けられ、主曲輪西側と南側には1mほどの低土塁が確認できる。
主曲輪西面の土塁と佐生城の石碑
主曲輪西面の土塁と佐生城の石碑

 城郭の歴史
 佐生城は中羽田に居館(後藤館)を構えていた六角氏の重臣・後藤但馬守賢豊の居城であるが、築城時期は定かではない。

 後藤氏は代々六角氏の宿老を勤めた一族で、進藤氏とともに“六角氏の両藤”と呼ばれて重用されたが、永禄6年(1563)六角義賢(六角承禎)から家督を継いだ当時18歳の六角義治(後の義弼)は、ことごとく義治の采配を批判する執権・後藤但馬守賢豊の存在が邪魔になり、種村三河守、建部日向守等に命じて嫡男の又三郎と共に誅殺させた。

 義治の理由なき後藤父子の誅殺を進藤、目賀田、三井、馬淵、楢崎、伊庭、平井、永原、池田、横山、三雲、木戸、荒井など六角家の主だった家臣達は批判し、後藤父子と最も親しかった永田景弘、三上恒安、池田秀雄、平井定武、進藤賢盛らの5人は、対立していた江北小谷城の浅井氏の援助を得て、観音寺城のある撒山を囲み、城へ攻め上った。

 手勢わずか三百余の義治は観音寺城を支えきれず、蒲生賢秀を頼って日野中野城に落ちのび、後藤氏とも縁城関係のあった蒲生賢秀の斡旋で和議が成立した。
 和議にあたって出された条件によって義治は隠居し、六角氏の家督を弟高盛(承禎次男・義定)が相続、更に「六角氏式目」に署名して、六角氏の当主としての権限の縮小を余儀なくされた。
 後藤氏は賢豊の家督を次男高治が継ぎ、旧領を回復した。

 これを観音寺騒動(後藤兵乱)といい、この兵乱を機に六角氏内部の団結は瓦解し、5年後の永禄11年(1568)には織田信長の入洛を阻止することができず、六角氏は没落していくことになる。

 六角氏が織田信長に滅ぼされた後、後藤氏は蒲生氏に仕えた。なお、この観音寺騒動によって浅井長政は漁夫の利を得て、労せずして愛知川北岸までの支配権を得ることになる。
主曲輪東側の虎口
主曲輪東側の虎口


主曲輪南面の石垣
主曲輪南面の石垣
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