近江 佐久良城
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 城郭の概要
所在地:蒲生郡日野町佐久良
別 名 :下の城
築 城 :室町中期
初城主:佐久良刑部太夫
区 分 :平山城
遺 構 :空堀,堀切,竪堀,土塁,池跡
城 域 :250m×160m
    標高 210m
    比高 30m
戦 い :
永禄7年(1564)
  ○小倉右近太夫
     VS
  ●寺倉吉六・小倉実隆
永禄7年(1564)
  ○小倉右近太夫
     VS
  ●小倉実隆・速水勘解由左衛門

小倉氏の紋
小倉氏の家紋
(梅鉢)

 現地への案内
交通機関
国道307号線、中在から東へ約1km
詳細位置はコチラ 

 駐車場
・駐車:麓に約10台ほど駐車可

【訪 城】2000年8月
【撮 影】2000年8月
評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

主曲輪大手口の空堀
主曲輪大手口の空堀

 現地の状況
 室町時代(1338〜1573)に、桜谷一帯を領していた小倉氏の本城を「佐久良城」といい、地元では「下の城山」と呼んでいる。
佐久良城の東約500mにあるる長寸山頂上の長寸城を「上の城山」といい、鳥居平にある鳥居平城、奥師にある四谷城、川原に残る園城等、5カ所の城を小倉氏が築いた。
 下の城山とは、上の城山つまり戦時に使用した山城(詰の城)に対し、平常時に使用する城,館をいう。

 現在、佐久良城内には大手と搦手門である虎口の跡、帯曲輪、お馬洗いという湧水の跡等がみられるが、見所はやはり主曲輪大手口の土橋と大きな空堀。
 佐久良城の規模と云い、鳥居平城などの支城の造りと云い、小倉氏が蒲生郡,神埼郡一帯で六角氏や蒲生氏に対抗するだけの勢力を持っていたことが伺い知れる。
 なお、佐久良城近くの曹洞宗の神護山仲明寺は、小倉氏中興の小倉実澄の菩提寺である。
堅堀と堅土塁
堅堀と堅土塁

 城郭の歴史
 小倉氏の居城は発祥の地愛知郡小椋庄に小倉城を有したが、室町中期に小倉家は3〜4家に分家し小倉本家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とし、周辺に四谷城鳥居平城長寸城等を築いて家臣を入れて守らせた。

 分家した小倉東家は愛知川小椋庄を支配して高野城ならびに小倉城を居城とし、神埼郡御園庄(山上郡)を支配する小倉西家は山上城を本拠として和南城,山田城、相谷城,九居瀬城,八尾山城等の支城を設けた。


 永禄元年(1558)京,堺方面を視察した信長が美濃の刺客に狙われ、千種越えから美濃へ帰国する際に、道案内をしたのが小倉右京亮実房である。実房は信長に誼みを通じたため六角義賢(承禎)に切腹させられた。
 これが縁となり、寡婦となった実房の妻は、後に信長の側室となる、これが"お鍋の方"である。

【追記】
 上記記述については、当初「信長の道案内をしたのが小倉右京亮実澄である」としておりましたが、この記述は間違いであるとのご意見を、さる人から頂戴いたしました。

 調べましたところ、実澄は永享11年(1439)小倉三河守実方を父として佐久良城で生まれ、永正2年(1505)64歳で死没しており、永禄2年に信長が尾張へ帰国するために八風峠を越えた時は実澄死後54年後であること。
 また、実際に信長の道案内をした人物は、小倉右京亮(兵庫亮ともいう)実房であるとことが判明いたしましたため、記述変更致しました。(参考文献:東櫻谷町史,永源寺町の歴史探訪T(深谷弘典著))
 なお、お鍋の方についても諸説があるようですが、ここでは実房の妻としておきます。


佐久良城をもっと紹介

主曲輪周囲の空堀
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湧水が豊富なためお馬洗いと名付けられた池
湧水が豊富なためお馬洗いと名付けられた池


主曲輪大手口の土橋
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主曲輪搦手の土塁
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