近江 坂本城
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 城郭の概要
所在地:大津市下阪本三丁目
別 名 : −
築 城 :元亀2年(1571)
初城主:明智光秀
区 分 :水城
遺 構 :堀,石垣,井戸,池,溝,暗渠
城 域 :210m×250m
     標高86m


 現地への案内
交通機関は車を利用
国道161号線、下坂本一帯
 詳細位置はコチラmapfan
 駐車場
国道161号線横の公園に約20台
【訪 城】1999年7月,2005年5月
【撮 影】1999年7月,2005年5月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ☆☆
普請 ★★
体力消耗度 ☆☆
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

坂本城の石垣
坂本城の石垣

 現地の状況
 坂本城の城址碑は本丸跡とされる東南寺(国道161号線から西に200mほど入る)の前に建てられており、東南寺の境内には石仏を積み上げた“首塚”がある。これは坂本城落城の際に討ち死にした明智方の将士を葬った所とされています。
坂本城石碑
坂本城の石碑
首塚
東南寺の首塚
 坂本城の城域は本丸の東南寺付近を中心として、東南側,両社川,大道町を結ぶ線が内堀で、外堀は信教寺川,西近江路,梵音堂町を結んだ範囲とされています。
 また、坂本城が水城であった当時の面影をしのぶものといえば、国道161号線沿いの公園の波打ち際に残る石垣ぐらいのものでしょうか。
夏場の渇水期に琵琶湖の水位が下がると、水中から石垣の一部を観ることが出来ます。

 なお、坂本城の城門は西教寺に移築されているほか、聖衆来迎寺の山門としても移築されています。
 この来迎寺には宇佐山城で討ち死にした森欄丸の父・森可成の墓があり、こうした関係で、信長が比叡山の焼き討ちに際しても戦火を免れたとも云われています。



 城郭の歴史
 織田信長配下の明智光秀は、山門焼き討ちの直後の元亀2年(1571)、下阪本の湖岸に大天守と小天守をもつ水城を築きました。坂本城を築くまで光秀は宇佐山城にいたとされています。坂本城の背後の壺笠山には壺笠山城があり、坂本城と共に白川越えを押さえていた。

 当時来日していた宣教師ルイス・フロイスはこの坂本城を後に築城される天下の名城安土城に次いで豪壮華麗な城と述べています。

 坂本城築城の目的には、山門の監視ばかりではなく、近江の反信長勢力、特に浅井・朝倉軍に対する前線基地や彦根の佐和山城と共に信長の領国美濃と京都との往還の確保などがあげられます。

 この城は天正10年(1582)6月の山崎の合戦の後に焼失しますが、丹羽長秀によって再建され、同14年頃、城が大津(大津城)に移るまでこの地にありました。

 昭和54年(1976)に実施された発掘調査では焼土中から城の施設の一部とみられる建物の基礎や石組みの井戸,池,溝,石垣の礎石などが検出されています。
−大津市教育委員会 現地案内板より−

 天正10年(1582)6月14日山崎の戦いで敗れた光秀は坂本城へ帰る途中、山科で土民の槍にかかって55歳で最期を遂げる。本能寺の変から、僅か12日後のことである。

 6月15日に坂本城は落城する。その後、坂本城には丹羽長秀、松原家資、浅野長政が入るが、天正12年(1584)浅野長政が大津城を築き、坂本城は廃城となった。

観光
穴太衆積みの石垣
 穴太(あのう)積みというのは、大津市坂本近くにある穴太の石工集団が積んだ石垣のことを云いい、滋賀院門跡等、坂本の町で穴太積みの石垣をアチコチで観ることが出来ます。
関連リンク
  穴太積みの石垣について


山王総本山日吉大社
 全国各地にある3,800余りの山王さんの総本宮。大宮川の渓流が流れる景観のよい森に、見事な建築美を誇る数多くの社殿が散在し、秋には紅葉に壮麗な社殿が映えてさらに美しい眺めになります。
山王総本山日吉大社

慈眼堂
 信長による比叡山の焼き打ちの後、延暦寺の復興に尽力し、家康をはじめとした江戸幕府に仕えた慈眼大師天海を祀る廟所があるほか。境内には家康や紫式部の供養塔、江戸以降の天台座主の墓、および高島市の鵜川四十八体石仏のうちの13体などが並ぶ。
慈眼堂
大津市坂本4-6-33
TEL 077-578-0130(滋賀院)

比叡山
 最澄により開かれた天台宗の本山寺院で、比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔、西塔など、三塔十六谷の堂塔がある。
 ・比叡山ドライブウェー

滋賀院門跡
 天台宗の長であり延暦寺の住職でもある天台座主の御座所。地元では滋賀院御殿と呼ばれている。
滋賀院門跡
大津市坂本4-6-1
TEL 077-578-0130
大人 450円

聖衆来迎寺
 表門は旧坂本城の門を移したもので、境内には珍しい石造の巡縁の本堂や狩野探幽守信、尚信、信政、久隅守景筆の水墨障壁画がある。
聖衆来迎寺の山門


旧竹林院
延暦寺の中でも格式の高い里坊のひとつで、庭園は国指定の名勝。
旧竹林院
大津市坂本5-2-13
TEL 077-578-0955
大人 310円

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TEL 0740-28-1111

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明智光秀関連の史跡
明智城
岐阜県恵那郡明智町

明智長山城
岐阜県可児市瀬田地内

西教寺
 西教寺の総門は坂本城の城門を移築したもので、境内には明智光秀と一族の墓がある。

明智藪
 明智光秀は山崎合戦で豊臣秀吉に敗れ,近臣十数名と共に近江坂本を目指したが,大亀谷から小栗栖に至った竹藪で飯田一党の襲撃を受け最期を遂げた。
明智藪
京都市山科区小栗栖
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明智光秀の胴塚
 明智藪で最期を遂げた光秀の亡骸は、家臣によって首と胴を切断され、胴の部分は明智藪の北へ約1.5kmのところに埋められ、首級は家臣がいづこかに持ち去った。
明智光秀の胴塚
京都市山科区小栗栖
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明智光秀の首塚
 明智光秀の首塚が境内に供養されていることから、通称「光秀寺」とよばれる谷性寺。
初夏には、光秀の家紋にちなんで植えられた桔梗の花が境内を薄紫に染めあげることから、桔梗寺とも呼ばれる。

亀岡市宮前町猪倉土山39
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明智光秀の墓
 山崎の合戦で死んだとされる光秀ですが、死んだのは光秀の影武者で家臣の荒木山城守であったという説がある。
 光秀は荒深小五郎と名乗り郷里美濃国である山県市中洞で住んでいたという。慶長5年9月、関ヶ原の合戦に参戦しようとして根尾川を渡る際に溺れ、家臣が亡骸を持ち帰り供養したと言われている。

明智光秀の墓
岐阜県山県市中洞
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明智光秀の首塚(粟田神社付近)
 小栗栖の竹藪で土民に襲われて落命した光秀の首は、秀吉の手に渡り、本能寺に晒されたとも、粟田口の刑場に晒され、晒された首を明田氏(明智氏の縁者?)がもらい受け、自宅に移して菩提を弔ったという説があります。
また、家臣が運んで逃げたものの、夜が明けたためにこの地に埋めたとする説があります。
明智光秀の首塚
京都市東山区白川筋東川端通三条下ル
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亀山城
 天守台・石垣・堀・土塁などが残る。遺構の一部は昭和初期の大本教の弾圧の際に破壊されている。また、新御殿門(長屋門)が亀岡市立千代川小学校に移築されている。

京都府亀岡市古世町
亀山城の位置
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千代川小学校の移築門
千代川小学校の移築門

明智神社
 明智城を斎藤氏に落とされた後、鉄砲指南役として越前の朝倉義景に仕えていた当時の住居跡と言われている。
福井市東大味
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