大嶽城(おおずくじょう)
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 城郭の概要
所在地:東浅井郡湖北町伊部
別 名 : −
築 城 :朝倉氏
初城主: −
区 分 :山城
遺 構 :土塁
城 域 : −


 現地への案内

 国道365号線(北国街道)湖北町伊部
詳細位置はコチラ 

 駐車場
小谷城麓の駐車場を利用
【訪 城】2000年10月,2007年12月
【撮 影】2007年12月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★★
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

主曲輪と周囲の土塁
主曲輪と周囲の土塁

 現地の状況
 大嶽城は小谷城の北にあり、山王丸より六坊跡に至る尾根より清水谷の渓谷を越え、距離にして約500mほども登った小谷山(495m)の山頂に築かれた小谷城の支城的な位置づけにある。
 この大嶽城は元亀3年以降、朝倉氏が越前より来援した時に山崎丸福寿丸、および月所丸と共に築いたもので、元亀3年(1572)8月織田信長による小谷城攻めがされた時には、朝倉氏の斉藤、小林、西院坊らが立て籠もっていた。(信長公記)

 大嶽城へは小谷山麓の小谷寺から小谷城を経て六坊跡から登るルートと、清水谷から六坊跡に出て上るルート、清水神社の鳥居前から大嶽山の尾根から山崎丸福寿丸を経て大嶽山に達するルート、および上山田の山田神明宮跡から焼尾砦を経て北側の支尾根を登るルートなどがある。

 小谷城から大嶽山の山頂までは約30分。大嶽城は主曲輪を中心として4つの曲輪から構成され、主曲輪の周囲には高さ2〜4mの土塁を廻らせ、周囲に二の曲輪といった輪郭式の曲輪配置としている。
 山頂から派生する西側尾根は福寿丸、山崎丸を経て北国脇往還道へ通じる重要ルートな上、比較的緩やかな斜度ということもあって二の曲輪西側下には、土塁を廻らせた三の曲輪と、四の曲輪と配している。

 三の曲輪、および四の曲輪前面には足の長い2条の竪堀が配され、竪堀の規模は小谷城の至る所で観られるどの竪堀よりも大きく、築城時期の違いを予感させた。
 また、二の曲輪の土塁は高さ1m〜4mと高さが一様ではなく、ここでも大嶽城が改修されたことを暗示しているように思えた。

 北側尾根筋には2本の堀切が配置され、山城には一般的な堀切が小谷城周辺では観ることが無く新鮮なものに感じられた。
なお、小谷城関連の城砦で堀切が観られるのは朝倉軍が守備していたとされる月所丸と大嶽城だけで、ここにも浅井氏と朝倉氏の築城思想の違いがみられて興味深い。
山王丸から見る大嶽城の小谷山
山王丸から見る大嶽城の小谷山

 城郭の歴史
 元亀元年(1570)6月28日、姉川の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた浅井長政は、同年9月石山本願寺攻めをする信長の隙を衝いて朝倉軍と共に坂本に出陣。壺笠山城を拠点として織田家家臣の森可成(よしなり)の宇佐山城を攻め落とした後、織田軍と対峙し信長を窮地に追い込むが、戦線が膠着し勅命により和議を結ぶ。

 元亀2年(1571)9月比叡山を焼き討ちした信長は、翌3年3月に小谷城を攻めるが一進一退で戦果を上げられず。
 同3年8月三度軍を起こし、大嶽城の北に位置する焼尾砦の守将・浅見対馬守の手引きで朝倉軍の立て籠もる大嶽城を攻め落とすと、続いて小谷城の西にあり、平泉寺の波多野玉泉坊が立て籠もる丁野山城を落とす。

 大嶽城と丁野山城を落とされた朝倉左京太夫(朝倉義景)は越前敦賀に撤退を試みるが、刀根山にて信長軍の追撃戦に大敗。一乗谷に帰った朝倉義景は大野の六坊賢松院に退いたが、式部大輔に裏切られ自害して果てた。一乗谷城は、朝倉氏を見限った平泉寺宗徒に攻められ落城した。

 8月26日朝倉氏を攻め滅ぼした信長は虎御前山に軍を進めると、翌27日小谷城攻めを再開。
 織田軍は大嶽城を落としたことで防御が手薄となった小谷城搦手の清水谷から攻め上がると、長政の父・浅井下野守久政の籠もる京極丸を落とし、翌日浅井長政を自刃に追い込んだ。




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北尾根の堀切
北尾根の堀切1
北尾根の堀切1


北尾根の堀切2
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西斜面の竪堀
西斜面の竪堀1
西斜面の竪堀1


西斜面の竪堀2
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