近江大津城
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 城郭の概要
所在地:大津市浜大津
別 名 :雲浜城
築 城 :天正14〜15年(1586〜87)
初城主:浅野長吉
区 分 :水城
遺 構 : −
城 域 : −


 現地への案内
交通機関は車を利用
京阪電車、浜大津駅下車すぐ
詳細位置はコチラmapfan

レンタサイクル
JR大津駅 1回500円
問合せ電話 077-524-7016
 駐車場
駐車場はなし
【訪 城】2000年6月
【撮 影】2000年6月

評価項目 見所評価
選地
縄張り ☆☆
普請
体力消耗度 ☆☆
お勧め度 ☆☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

大津城外堀の石垣
大津城外堀の石垣

 現地の状況
 大津城は、現在の京阪電車浜大津駅周辺であるが、城郭遺構は全く残されていない。
 1970頃は国道161号線のすぐ近くまで湖岸で、大津城の石垣が波に洗われていたが、今では埋め立てにより湖岸が後退し大津城が水城であったことさえ忘れさせてしまう。
 唯一、浜大津駅から国道161号線を跨ぐ陸橋を下りた所に建てられている大津城の石碑が、その存在を示すのみである。

 大津城は本丸を最北(琵琶湖側)に配置し、三重の堀を巡らせた水城であったとされ、外堀と城下は京橋口,尾花川口,三井寺口、および浜町口の4ヶ所で繋がれていたが、縄張り図などが残っていないため詳細は不明である。

 その規模については、明治35年に書かれた「大津籠城」の中の大津城郭図、昭和4年に発刊された「大津城攻防戦闘要図」、および昭和14年に郷土史家田中氏の作成された「大津城考証図」などから、背後を琵琶湖として東は大津駅周辺、西は琵琶湖疎水、南は京町通りまでが外堀であったと推定されている。

 なお、昭和10年(1935)現大津市立図書館の建設工事の際、南北約50mにわたって石垣が発見されている。
大津城の縄張り
大津城の縄張り

 城郭の歴史
 天正12年(1584)坂本城は廃城され、坂本城4代目藩主の浅野長吉(長政)が坂本城の遺構を使って大津城を築いた。

 城主は浅野長政,増田右衛門,新庄駿河守と代わり、文禄4年(1595)には京極高次が近江八幡山城から移り、6万石で大津城城主となる。
 なお、当時の大津城天守は四層五階で二階と五階に破風屋根が設けられた豪壮なものであったという。

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起こると、京極高次は妻のおはつが、浅井長政とお市の方の間に生まれた次女あったことから(姉は淀君、妹のおとくは秀忠の妻)、高次の立場はややこしくなる。

 高次は苦しい政治情勢の中で東軍方についた。高次以下3千の兵が籠城する大津城を、関ヶ原の前哨戦として毛利元康を大将とする西軍の毛利軍1万5千が攻撃するが、城方も大軍を相手に抗戦。しかし、大津城の南の長等山から城内に大砲を撃ち込まれたことで開城。
 8日間におよぶ籠城戦は終わったが、京極軍が大津城で西軍を釘付けにしたことで、西軍4万7千が関ヶ原に到着するまでに天下分け目の戦いは東軍の勝利で終わる。

 京極高次は降伏したことを恥じて高野山に入るが、大津城に西軍を引き付けた功績が認められ、家康より若狭・小浜8万5千石を領して翌6年に小浜城を築く。

 関ヶ原の戦い後、大津城は長等山から大砲を撃ち込まれたことを理由に廃城となり、その役割を担うため膳所城が築かれる。膳所城築城後も本丸跡には代官所が置かれ、明治維新まで続く。
 なお、彦根城の天守閣は、昭和32年に彦根城解体修理の時に発見された墨書銘と「井伊家年譜」によって、慶長11年(1606)に大津城天守から移築されたものだということが判明している。


 



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