近江 大岩山砦
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 城郭の概要
所在地:伊香郡余呉町下余呉
別 名 : −
築 城 :天正11年(1583)
初城主:中川清秀
区 分 :山城(砦)
遺 構 :土塁,竪堀
城 域 :30mm×100m

 現地への案内
交通機関
 国道365号(北国街道)
詳細位置はコチラ 

 駐車場
柳ケ瀬地区には駐車場なし
刀根地区には7〜8台駐車可


【訪 城】2003年,2008年4月
【撮 影】2008年4月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


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大岩山砦の土塁
大岩山砦の土塁

 現地の状況
 大岩山砦は賤ヶ岳から東に延びる尾根の先端に築かれ、東には高山右近が布陣した・岩崎山砦と隣接している。

 木之本町黒田の大澤寺の階段横から3〜4m幅の山道を約10分登ると、賤ヶ岳へと続く尾根道のハイキングコースに出る、更に10分ほどで大岩山山頂に着く。
 途中には秀吉が敗走する佐久間盛政の追撃戦の指揮をとったとされる “猿が馬場” や、戦死した中川清秀の首を洗ったという “首洗い池” 等があり、これらを見ながら歩くと、大岩山山頂までは距離を感じさせない。

 大岩山山頂の砦は南北20m,東西40mほどで、北〜東〜南には高さ0.7〜0.8mほどの土塁が残る。また、東端には中川清秀主従の供養塔が建てられており、中川清秀の墓には「浄光院殿行誉荘岳大居士」と彫られている。

 大岩山砦の東側虎口は一見、平虎口のようであるが、虎口に通じる現在の道は後年のハイキング道で、従来の道は尾根から2度折れして虎口に至っており、虎口構造は他の秀吉軍の陣城同様に、技巧的な縄張りを見ることができる。

 一方、山頂の砦から北に延びる三つの支尾根にはそれぞれ曲輪が設けられているが、その他の防御施設は、“猿が馬場”の北に1条の竪堀が確認出来るだけで、虎口構造と比較して防御施設の貧弱さが目立つ。

 防御施設の貧弱さは、対峙する柴田軍との間には賤ヶ岳砦などが位置しているという安心感からきているのであろうか。天正11年(1583)に佐久間盛政が行市山砦から賤ヶ岳砦を迂回してこの岩崎山砦を攻撃目標に選んだ理由も頷ける。

 大岩山の山頂からは柴田軍主力部隊が陣を構える行市山が11時の方向に、また左手(西)には余呉湖周囲の山並みが手に取るように見え、佐久間盛政が行市山から余呉湖の周囲約10kmの山道を迂回して攻め込んできたルートを一望することができる。

 なお、大澤寺にある鐘突堂の梵鐘は、天正11年(1583)大岩山砦に駐留する佐久間盛政軍が、大垣から秀吉軍が帰陣したことを味方に報せるために乱打したものと伝えられている。この梵鐘は応永19年(1412)の作とされ、木之本町文化財に指定されている。
 なお、鐘突堂からは、秀吉の本陣である木之本が一望される。
中川清秀の墓
中川清秀の墓
大澤寺の鐘突堂
大澤寺の鐘突堂

 城郭の歴史
 大岩山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで秀吉方の武将・中川清秀(当時茨木城城主)が守備していた砦である。
 玄蕃尾城に陣をおいた柴田勝家と木之本地蔵(浄真寺)に本陣をおいた羽柴秀吉は、配下の武将達に北国街道沿いの山々に城砦を築かせ、両軍は対峙した。

 戦線が膠着する中、柴田勝家方に寝返った山路正国が、佐久間盛政に「普請なども粗略にて」と献策したのが、この大岩山砦である。
 行市山砦の佐久間盛政は勝家の許しを得ると、天正11年(1583)4月20日、夜半の暗闇に紛れて、集福寺坂〜文室山〜権現坂を経て、賤ヶ岳砦の北側を迂回して中川清秀が立て篭もる大岩山砦を急襲し、砦を奪取した。

 大岩山砦に隣接する岩崎山砦の高山右近は、大岩山砦が落ちたと知ると、岩崎山砦を放棄し、北国街道を挟み堀秀政が布陣する東野山砦に逃避。

 翌21日未明には、岐阜城の織田信孝を攻めるために出陣していた羽柴秀吉が大垣からとって返し、大岩山砦の佐久間盛政を急襲し、佐久間盛政の“中入り”は失敗に終わった。

 佐久間盛政の大岩山砦の急襲と呼応して、玄蕃尾城から出て北国街道を南下してきた柴田勝家は狐塚に陣を構えるも、東野山砦の堀秀政の牽制で動けないまま、前田利家の離反から柴田軍は総崩れとなった。



  凸 秀吉軍の配置   勝家軍の配置

賤ヶ岳の戦いにおける両軍の布陣
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