近江 尾上城
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 城郭の概要
所在地:東浅井郡湖北町東尾上
別 名 : −
築 城 :文治・建久年間(1185〜99)
初城主:浅見実勝
区 分 :平城
遺 構 : −
城 域 : −

 現地への案内
交通機関
県道331号線(湖北長浜銭、別名さざなみ街道)尾上地区

詳細位置はコチラ 

 駐車場
空地を利用


【訪 城】2002年6月
【撮 影】2002年6月

評価項目 見所評価
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★☆☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



尾上城があったとされる県道尾上
尾上城があったとされる県道尾上

 現地の状況
 尾上城は東尾上の漁業組合付近にあったと考えられているが、遺構もなく定かではない。城の一部と思われる石垣の一部が尾上漁港近くで発見されたとも聞くが・・・・・・・。

 竹本政一,吉田勝著の「近江尾上城」によると、"城域は現在の小江神社の西北隣地から湖岸に至る地域にして、今もその地に的場と呼ぶ地区がある。西方は湖中にも至っており、今の尾上漁港の湛浦内にも及んでいた"としている。


 城郭の歴史
 尾上城が歴史上に登場するのが、大永3年(浅井三代記では永正14年)、京極氏第5代当主京極高清の跡目相続について浅井郡野瀬村の大吉寺でおこなわれた梅本坊公事以後のことである。

 梅本坊公事に端を発した京極氏の内訌は、浅井亮政,三田村忠政,今井秀信等の推す京極家長男・高延一派と、高慶を推す上坂信光,下坂秀隆等の一派が争った。

 浅井亮政等は尾上城を拠点として、上坂信光の居城・上坂城今浜城(現在の長浜城)を攻め落とした。

元亀4年(1573)山本山城の城主・阿閉貞征が織田信長に降ったことで小谷城は孤立し、浅井氏は滅亡の一因となった。

 その後、阿閉貞征は秀吉の与力となり、山本山城と伊香郡内の本領を安堵されたが、天正10年(1582)本能寺の変で明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城を攻めた。
しかし、山崎の合戦で光秀を破った秀吉に追討され一族全て殺され、尾上城は山本山城と共に廃城となった。

 以下、竹本政一,吉田勝著の「近江 尾上城」の抜粋。
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 尾上城は琵琶湖湖上交通の監視と "浅井ノ小江" (尾上湊)での関銭取り立てと、山本山城外郭の守備のための構築されたものであると伝える。

 治承4年(1180)山本左兵衛尉義経が山本山城を築城した時、同時期に尾上城も築かれたという説。
 あるいは文治・建久年間(1185〜99)江州浅井郡朝日郷の地頭職を領して、この地に入った斉藤(朝日)氏が浅見実勝なる者を代官として尾上に住まわせ、尾上城を築かせたともいう。

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