近江 小倉城 
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 城郭の概要
所在地:東近江市小倉町
別 名 : −
築 城 :承暦年代(1077〜1080)
初城主:小倉景実
区 分 :平城
遺 構 :空堀,堀切,土塁
城域 :1000m×500m

 現地への案内
交通機関
国道356号線・妹信号より東入る

 駐車場
空地に駐車

【訪 城】1999年6月
【撮 影】1999年6月

評価項目 見所評価
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



小倉城址の碑
小倉城址の碑

 現地の状況
 小倉城は愛知川右岸の河岸段丘上に築かれており、小倉町の公民館前から河岸段丘側へ200mも入ると、小倉城と清和源氏小倉氏発祥の地の石碑が建てられている。
 ここが小倉城の大手口と考えられており、背後の段丘上に南北30〜40m、東西300mほどの範囲に遺構が残されている。
 城域の西側は、河岸段丘が落ち込む自然地形のために城域の境界は明確だが、東側は城郭遺構が延々と続き、考え方次第では小倉城の出城とされる勝鳥城付近まで城域は広がり、城域は東西400〜500mにもなる。

 小倉城の石碑前には河岸段丘へ上がる道が左右に2本つけられているが、大手口からの登城道(大手道)は石碑から右手に延びる道である。
 左手の道は主曲輪横に出る小倉新道で後年につけられた道のようである。この道は堀切だった地形を利用されている可能性もある。

 大手道を登ると、すぐに河岸段丘を断ち切る堀切(見方によっては横堀ともいえる)が出現する。この辺りが二の曲輪のようである。
 二の曲輪は河岸段丘の東西を堀切った地形の中に、土塁をめぐらせた曲輪が梯郭式に無数に繋がっている。曲輪は個々に平虎口を設けており、屋敷地のような構えである。
 主曲輪に対する求心性が無いのは、圃場整備で改変を受けたためか、それとも小倉城そのものが屋敷地のような構えであったのかは分からなかった。

 二の曲輪群の一画に、ひときわ高い土塁をめぐらせた曲輪が幾つかある。虎口横の土塁の塁線が屈曲するなど他の曲輪とは様子が異なり、後年に陣城として改修の可能性を感じた。

 主曲輪は微高地の地形を利用して周囲に空掘を巡らせ、他の曲輪とは一線を画している。
主曲輪の西約100mほどが小倉城の西端になるが、西側は断崖地形で周囲に空掘を巡らせた30m×40mほどの曲輪がある。後方は二重の空掘として備えも怠りない。
この曲輪に建てられていたのが物見櫓である。

物見櫓曲輪周囲の空堀
物見櫓曲輪周囲の空堀

 城郭の歴史
 小倉城は承暦年代(1077〜1080)に清和源氏の後裔小倉景実が、背後に鈴鹿山脈を擁し、眼下に愛知川を望む天然の要害に築いたものである。

 室町中期に小倉家は3〜4家に分家し小倉氏本家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とし、周辺に四谷城鳥居平城長寸城等を築いて家臣を入れて守らせた。

 分家した小倉東家は愛知川小椋庄を支配して高野城ならびに小倉城を居城とし、
小倉西家は神埼郡御園庄(山上郡)を支配し、山上城を本拠として和南城,山田城、相谷城,九居瀬城,八尾山城等の支城を設けた。

 小倉氏は承暦年代に小倉城を築いた以後、約500年間にわたって愛知,神崎,蒲生三郡の東部を領し、六角氏、蒲生両氏の隣強と東近江の雄を競ったが、永禄年間(1558〜1569)に至って、小倉一族の間に内乱が起こり、第17代城主・小倉良秀が敗れて城は焼亡し、同族は各地に散逸した。

二の曲輪の堀切
二の曲輪の堀切


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物見櫓曲輪の石積み
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