近江 小川城
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 城郭の概要
所在地:東近江市小川町
別 名 : −
築 城 : −
初城主:小川氏か
区 分 :平城
遺 構 :堀,土塁
城域 : −

 現地への案内

県道2号線、今の信号を西入る

 駐車場
空地を利用

【訪 城】2001年7月
【撮 影】2001年7月

評価項目 見所評価
選地 ★☆☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



川として残る堀跡
川として残る堀跡

 現地の状況
 小川城は県道2号線"今"の信号から福堂今線(県道192号線)を西へ500mほど走った、小川地区のほぼ中心部に位置している。

 現在では小川城址であることを示すものは、「小川老人憩いの家」の前に建つ案内板だけである。
しかし、この案内板とて建てられたものではなく、城址はここより西側の小さな川に挟まれた小字名で「城」と呼ばれている東西70〜80m、南北150mほどの一画である。この城域の西側に位置する川は現在も堀跡であるといわれている。

 この川が堀跡であることを示すものとして、福堂今線の道路を越えた北側には川が不自然な形で二俣に分岐されており、当時の堀であったことを暗示しているようである。

 小川老人憩いの家前に小さな林があり、この林の中には高さ1〜1.5mほどの土塁がわずかながら残されている。


 城郭の歴史
 元亀元年(1570)6月の姉川の戦い後、9月になると本願寺11世法主顕如は三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に、各地の一向宗門徒に檄を飛ばし織田信長に宣戦布告(石山合戦)した。

 この顕如の檄に応じて、近江の一向一揆衆は金ヶ森城(金森道場)を中心に、志村城(新村城)や小川城に楯籠もって信長に対抗するが、元亀2年(1571)に信長軍に攻められ落城した。


----------------------------現地案内板より
 小川土佐守祐忠と小川城址
 元亀2年(1571)9月1日織田信長勢の攻撃を受け、小川城主、小川土佐守祐忠は7人の人質を進上して許しを乞い、戦火から区民を守りました。
 その時 城(館)は焼失し祐忠は信長の一武将となりました。後、伊予の国(愛媛県)今治に七万石の所領を得、城主となり関ヶ原合戦(1600年)に西軍の一大名と して2000人の部下と共に従軍しました。城址は此の地より北方150mの高台にあります。「小川の歴史」より抜粋 
----------------------------ココマデ


【信長公記の元亀二年の項】
 「信長公記」の元亀二年の項に小川城の記述がありますので、紹介しておきます。
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志むら攻め干さるゝの事
 八月廿八日、信長公、佐和山へ御出で、丹羽五郎左衛門所に御泊。先陣は一揆楯籠り候小川村志村の郷推し詰め、近辺焼き払ふ。
 九月朔日、信長公、志むらの城攻めさせ御覧じ、取り寄する人数、作久間右衛門、中川八郎右衛門、柴田修理、丹羽五郎左衛門、四人仰せつけられ、四方より 取り寄せ、乗り破り、頸数六百七十討捕る。これによって、並郷、小川の城主小川孫一郎、人質進上候て、降参申すの間、御赦免なさる。
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 一向一揆の詳細については、本願寺と一向一揆を参照下さい。


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