小谷城築城の諸説

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 小谷城の築城年代については諸説があり、 「浅井三代記」によると永正13年(1516)9月28日に着工、同年10月20日に完成(日本城郭体系では永正14年(1517)としている)したと記述されている。

【浅井三代記】
 九月二十八日ヨリ領分ノ人数ヲ出シ、小谷山ニ普請ヲ初メラレケリ敵人足ヲ追立ヘキカトノ押ヘニ大橋善次郎、伊部清兵衛、両人ハ小谷山ノ麓ニ人数ヲ立置、浅井新次郎教政、同新助政信、尾上彦右衛門尉、三人ハ尊照寺村ニ備ヲ立ル。三田村左右衛門太夫ハ小谷ツヅキ雲雀山ニ備ヲ立ル。浅井亮政ハ浮武者ト成テ普請ニ指図ヲ仕タマフ、大野土佐守ニ寄勢ヲ相添テ上坂ノ城ニ置、カクテ小谷山ノ三方ニ人数ヲ立テオキ昼夜ノサカイモナク普請ヲ急、府所ノ工匠ニ下行米過分ニ与エタマエバ四方三方ヨリ馳アツマリケル程ニ十日許リ間ニハヤ掘、土手総構出来スレバ亮政大イニヨロコビ給ヒテ夜食々々兵糧米小谷ノ小屋場ヘカヨワセケル。上平殿病気ニテ敵一人モ寄来サレバ十月二十日迄ニ大形城形出来候故、亮政、大野木ガ許ヘ宣ヒ遣サレケルハ当城小谷普請大方出来候条、其方兵糧米、武具等不残当城ヘ運ビ候ハバ今浜ノ城跡井、上坂ノ城ヲ自焼シ悉ク破却仕ラレ小谷ノ城ヘ籠給ベキ旨仰付ラル・・・・・・・・

 しかし、最近では「浅井三代記」は史料としての信憑性に多少問題があるとされている。
いずれにしても、大永5年(1525)六角定頼が江北に攻め込み磯山に布陣した際、浅井亮政は戦いの不利を悟り小谷城に立て籠もったとある。これが小谷城築城後最初の攻防戦であり、大永5年には小谷城は完成していたと考えられている。

 吉田勝著の城と陣屋 30号 「近江小谷城」によると、大永3年(1523)3月、浅井郡野瀬の大吉寺梅本坊において15代当主京極高清の跡目相続について、家臣団の協議(梅本坊公事)が行われるが、長男・高延を立てようとする浅井亮政,今井越前守等と、次男・高慶を立てようとする父高清,上坂信光,多賀四郎左衛等が対立する。
 その後、上坂信光を攻めて上坂城、今浜両城を落とした浅井亮政は、両城が平城であったために、新たに堅固な山城を築かんものと大野木,三田村の諸将と謀って小谷の険要の地を選んで大永4年(1524)9月に着工したとある。

 真意のほどは定かではないが、最近では小谷城の築城は大永4年(1524)とする説が一般的であり、ここでは大永4年(1524)に築城されたとしておく。


近江の城郭