浅井氏の出自

 浅井氏の出自については。諸説があって明らかではないが、「浅井三代記」、「浅井日記」等によれば、三条公綱落胤説、あるいは物部守屋後裔説の二つがある。しかし「東浅井郡志」や「坂田郡志」では、これらのの史料は江戸時代初期にいわゆる戦記物と云われるものである近江堅田の住人沢田源内の著した「江源武鑑」によるところが多く、史料としてははなはだ信憑性に乏しいという批判がある。
 三条公綱落胤説というのは、嘉吉2年(1442)3月、正親町三条公綱卿が勅使を蒙り左遷されて、東浅井郡丁野(ようの)村に蟄居中、土地の女との間に一子をもうけ、その子成長の後、江北守護京極持清に召し出され、浅井新次郎重政と名乗ったのを始祖とする説である。
 一方、物部守屋後裔説というのは、古来、坂田、浅井、伊香の江北地方に勢いを占めていた物部しから出たと云うものである。

 鎌倉時代に入り佐々木京極家が江北守護として浅井郡に浸透して来る頃には浅井氏は江北の諸武士、今村,河毛,安養寺氏等と共に京極氏の根本被官の一人に数えられるようになった。根本被官というのは京極氏が江北守護となって以来の譜代家臣のことで、浅井氏は浅井郡丁野村上村付近を本拠地とする所在領主として、京極氏の中でも中堅的部将としての地位にあった。「江北記」によれば「根本当方被官之事」として、今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・弓削・浅井・小野・二階堂の12名があげられる。そのほか、京極六人衆として、多賀・大津・若宮・黒田・加賀・隠岐の諸氏がある。しかし、この頃の浅井氏には特に名をなしたものが無く、史上にこれを見ないが、浅井郡内における在地領主として次第に成長していき、文亀年間(1501〜1504)の京極家の内紛の今浜合戦において初めて浅井亮政なる者が一方の首謀者として頭角を現し、ついには主家に替わって江北に号令するまでになる。

吉田勝著 城と陣屋 近江小谷城より


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