近江 小谷城
HOME湖北地区の城郭
 城郭の概要
所在地:東浅井郡湖北町伊部
別 名 : −
築 城 :大永4年(1524)
初城主:浅井亮政
区 分 :山城
遺 構 :空掘,土塁,堅堀,石垣
城 域 :1000mx1800m

      標高495m 
      比高230m 

浅井家の紋
浅井氏の家紋
(三つ盛亀甲)

戦 い :
大永5年(1525)

  
○六角定頼 VS ●京極高清・浅井亮政
天文7年(1538)

  
○六角定頼 VS ●浅井亮政
元亀3年(1572)
  △織田信長 VS △浅井長政
天正元年(1573)
  ○織田信長 VS ●浅井長政・朝倉義景


 現地への案内
交通機関は車を利用
 国道365号線、小谷城址口を北へ入る
JRを利用する場合は、JR北陸線川毛駅から徒歩で約20分
 詳細位置はコチラ mapfan
 駐車場
小谷寺の西から山の中腹まで車で上ることができ、道路脇に約10台駐車可

【訪 城】2002年8月
【撮 影】2002年8月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ★★★
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

山王丸の石垣
山王丸の石垣

 現地の状況
 登城ルートは幾つかあるが、最も一般的なルートは小谷寺の西から山道を登るルートである。この道は広く車でも安心して登れ、中腹に車を置けば20〜30分ほどで本丸につく。
 この間、番所跡〜馬洗池〜首据石を経て、浅井長政が小谷城落城時に自刃したと伝えられる赤尾美作守の屋敷,本丸櫓台,山王丸の石垣等の見所がある。

 山王丸の東側の石垣(写真上)は、小谷城内では最も大きな石垣(高さ約4〜5m、長さは約30m)で、この地方特有の石灰岩質の白濁色の石を用いた野面積みで積まれている。
当時は山中にもっと大きな石垣があったとされるが、羽柴秀吉によって破壊されたとも云われている。
 体力に自信のある人は六坊を経て、月所丸,小谷山山頂(標高495m)の大嶽城へ登るのも良い。月所丸は六坊から約10分、大嶽城は約30分の距離。

小谷山曲輪配置図
小谷山曲輪配置図


本丸石垣
本丸石垣

 北国脇往還(現在の国道365号線)を眼下に治め、大嶽城を北方の押さえとして、小谷山全山にわたり造られた曲輪は一千カ所にのぽり、近江の数ある城郭の中でも観音寺城と共に屈指のものである。
 また、 上杉謙信の居城・春日山城,能登畠山氏の居城・七尾城,尼子氏の居城・月山富田城、および観音寺城とともに日本5大山城とも云われている。

小谷城の白米伝説】
 大手道の番所を過ぎてしばらく山道を登ると、馬洗池と云われる石組みで作られた池がある。
小谷城の水は、はるか東方の天吉寺山の海抜650mの元池から延々10数キロ以上のサイフオン仕掛けの竹の"とい"で引いてきたらしく、水は城中からこの池に流れ込んでいたという。

 天正元年(1573)8月、織田信長は小谷城最後の総攻撃の前に、天吉寺山からの竹の樋を破壊したため、小谷城内には水が一滴もなくなった。小谷城の浅井側では水が絶えたと知れば、敵は勢いづいて攻め込んで来る。そこで水を落としていた樋から白米を馬洗い池に流して、城にはまだ水があるように見せかけたという。

 城郭の歴史
 浅井氏の出自は明らかではない。亮政の3代前の重政が明応5年(1491)に京極持清に仕えた時から歴史に登場する。
 大永3年(1523)15代当主京極高清の跡目相続について、浅井町野瀬の梅本坊で家臣団の協議(梅本坊公事)が行われるが、長男・高広を立てようとする浅井亮政,今井越前守等と、次男・高慶を立てようとする父高清,上坂信光,多賀四郎左衛等が対立する。

 梅本坊公事の結果、跡目は次男高慶に決定するが、次男高慶派の中心となっていた上坂氏の横暴に反感を持っていた長男・高延派の浅井亮政、今井越前守は尾上城に寄って次男・高慶派を排除することを画策する。
 大永4年(1524)六角氏の援助を受けて、上平寺城の京極高清,上坂信光を攻め、高延を救出する。上坂氏の今浜を攻略した浅井亮政は小谷京極丸に高清,高延を迎え入れる。この時点で名目はともかく、江北の実権は浅井氏が握ることとなる。
 小谷城が築城された年については諸説があるが、ここでは大永4年(1524)としておく。

 亮政,久政,長政と三代にわたって湖北を納め、栄華を誇った小谷城であったが、元亀元年(1570)姉川の戦いで織田・徳川軍に敗れた後、天正元年(1573)8月、清水谷から攻め上った織田軍によって落城した。
 浅井氏滅亡後、木下籐吉郎が湖北三郡を与えられ、天正3年(1585)に今浜の地に新たに長浜城を築いた後は廃城となる。





観光
福田寺
米原市長沢1049

 福田寺には浅井氏の寄進によるものだと伝えられているヨシ葺きの書院、“浅井御殿”(県指定文化財)がある。福田寺は浅井氏との関係が深く、寺伝では、小谷城落城時に生後3ヶ月の赤ん坊だった万菊丸は誰にも気づかれることなく福田寺で養育された」と伝えられている。
 なお、この福田寺は浄土真宗中興の祖と云われる蓮如上人が滞在したところでもあり、長沢御坊の名でも知られている。

mapfan

小谷寺
東浅井郡湖北町伊部
小谷寺
 小谷寺の前身で桃津寺と称されたが、応永33年(1514)小谷城六坊に再建されたときに山王寺と改名され、浅井亮政が祈願所と定め常勝寺と改称し北谷に移築した。その後、浅井氏三代にわたって祈願所となった。
 天正元年(1573)浅井家の滅亡とともに焼失。現在の小谷寺は豊臣秀吉の再建で、かつての寺地から南方400mの所にある。

 山門脇の大きな松の切株は、お市の方が長政と死別した後、柴田勝家(しばたかついえ)に嫁ぐ直前に自ら植えたものという。
mapfan


お薦めの書籍
お勧め度








その他の小谷城の遺構
御馬屋
御馬屋
御馬屋
 馬洗い池の横に背後を尾根の切岸とし、三方を土塁で囲まれた一画がある。馬屋ではないかとされているが、小谷城内にあって曲輪の四周を囲んだ曲輪はここだけで本当に馬屋だったのだろうか、武者溜まりとも考えらるが・・・・・・。

馬洗い池
馬洗い池
馬洗い池

首据石から見た馬洗い池
首据石から見た馬洗い池
 大手道の御馬屋の横にあって、馬洗い池とよばれている。城内の曲輪に井戸らしき窪みを幾つか見ることができるが、現在でも満々と水を湛えているのはこの池だけである。

首据石
首据石
首据石
 京極氏の家督相続による内訌を利用して家臣団の中で発言権を増した浅井亮政は、京極高清,京極高慶父子と対立するようになる。復権を狙った京極父子は江南の六角定頼を頼ったことで、京極高広を擁立した浅井亮政、浅見貞則、三田村忠政等は、天文2年(1533)六角氏と戦いに及ぶ。この時、江北と江南の境目に領地をもつ京極氏家臣の今井秀信が六角氏と内通したことを知った浅井亮政は今井秀信を神照寺で殺害し、小谷城内にその首を晒したという。

桜馬場
浅井氏及家臣供養塔
浅井氏及家臣供養塔
 桜馬場は3段の曲輪からなり、南端の曲輪からは清水谷、および北国脇往還道(現在の国道365号線)を眼下におく。また中島城、丁野山城が築かれている岡山をも見通すことが出来る。ここが本当の馬場かどうかは疑問の残るところである。
 中段の曲輪には浅井氏及家臣供養塔が建てられている。

赤尾屋敷
浅井長政自刃の地
浅井長政自刃の地
 赤尾屋敷は本丸の東、本丸から7〜8m下がった位置にある袖曲輪で、曲輪の広さは25m×20mほど。赤尾という名前からすると、浅井亮政、久政、長政と三代に仕えた浅井家の重臣・赤尾清綱の屋敷跡と考えられる。
この曲輪の北端に「浅井長政公自刃之地」の石碑が建てられている。

千畳敷の間
本丸から見る千畳敷
本丸から見る千畳敷
 中世山城をあちこち観て廻るが、この小谷城の千畳敷ほど大きな曲輪はあまり記憶にない。さて、この大きな曲輪がどのような目的で使用されたのか。
本丸〜中ノ丸間の大堀切
大堀切
大堀切
 本丸の背後、中ノ丸との間に幅25mほどの大堀切がある。小谷城内にあって、北方(清水谷方面)に対し、防御施設をもっているのはこの本丸だけで、如何なる理由でこの本丸だけに後方防御施設が設けられたのか非常に興味を引かれるところである。

中ノ丸
中ノ丸
 中ノ丸は本丸と京極丸の間にあって、ほぼ平坦な地形に3つの曲輪を連ねている。

京極丸
京極丸虎口
京極丸虎口
 浅井亮政は天文3年(1534年)、江南の六角氏を後ろ盾として対立していた京極高清,京極高広父子と和解し、京極氏庇護のため小谷城に迎え入れた。京極丸は京極高清,京極高慶父子が住んだところから由来している。

京極丸土塁
京極丸土塁
 京極丸は約50m×30mほどの曲輪を中心として構成されている。中核部曲輪の南東側にだけ高さ3mほどの土塁が築かれている。これも横山城方面の織田軍を意識していたことを示しているのか。

小丸
小丸
 浅井久政の隠居所とされる。天正元年8月小谷城の北方小谷山山頂の大嶽城を落とされ、防御が手薄となった清水谷から攻め上がった織田軍に攻められ、久政は鶴松太夫の介錯により切腹して果てた、享年49歳。

山王丸
大王丸の虎口石垣
大王丸の虎口石垣
 山王丸は山王権現(現小谷神社)が祀られていたところから名前がつけられている。
 小谷城の曲輪の中でも最高所(標高395m)にあって、詰の城とも考えられている。曲輪南東部の石垣は小谷城内でもっとも規模の大きなものである。

一文字土塁
一文字土塁
 山王丸は3つの曲輪から構成されており、中でももっとも高所にある曲輪には南面(大手道方面)は比高差があり、さらに土塁も配されているが、北方の清水谷方面には地形に沿って切岸だけで処理されている。







管理者・野暮からのご紹介
 “小谷城に行かれる際には、併せて以下を廻られたら如何でしょう”
★一般観光 お市の里 浅井町歴史民俗資料館 ,国友鉄砲の里資料館
★歴史好き
・横山城を包囲した織田軍と浅井・朝倉軍とは姉川を挟んで戦う事になるが、そのきっかけとなった横山城
・姉川の戦いで勝利した織田信長は、小谷山と北国街道を挟んで対峙する形で砦を築いた虎御前山砦
★お城マニア ・朝倉攻めで、信長に反旗を翻した浅井氏が朝倉軍と共に、信長を迎え撃つために築いた城・長比城刈安尾城
★浅井ファン ・浅井家の菩提寺である徳勝寺には、三代の城主の墓がある。この徳勝寺、もとは小谷城下の清水谷にあったものを秀吉が長浜に移し、その後再度移転し、現在では長浜市朝日町にある。

福田寺の境内にある書院は、小谷城の遺構を移したものといわれ、福田寺御殿(通称浅井御殿)として県の文化財に指定されている。
 また、福田寺の寺伝によれば、「長政とお市の間には、三人の娘のほかに、男の子が二人いた。上の子が万福丸、下の子が万菊丸といった。小谷城落城時に二人とも脱出したが万福丸は発見され磔刑、あるいは串刺しにされたが、生後3ヶ月の赤ん坊だった万菊丸は幸い誰にも気づかれることなく福田寺で養育された」とされる。

管理者・野暮からの耳より情報
小谷城の隠れた遺構の紹介

小谷城に関する過去の講演会


HOME湖北地区の城郭

 近江の城郭