近江 中野城(日野城)
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 城郭の概要
所在地:蒲生郡日野町西大路
別 名 :日野城
築 城 :大永年間(1521〜28)
初城主:蒲生貞秀
区 分 :平城
遺 構 :石塁・空堀・門跡
城 域 :650m×860m



 現地への案内

国道307号線〜国道477号線・西大路地区
詳細位置はコチラ 

 駐車場
約20台
【訪 城】1999年7月
【撮 影】1999年7月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

お薦めの書籍
お勧め度





中野城の城址碑
中野城の城址碑

 現地の状況
 中野城は蒲生氏郷の生まれた城として知られている。
城址は昭和40年日野川ダムの建設時に多くの土塁が壊され、本丸の北側半分を除いて大半が水没し、現在では稲荷山と石垣及び空堀の一部が残されている。

 中野城の北には、隣接して西大路藩市橋家1万7千石の西大路陣屋(仁正寺陣屋)がある。

中野城の空堀
中野城の空堀

 城郭の歴史
 文亀3年(1502)10月、伊庭出羽守貞隆が守護佐々木六角高頼に背いたので、高頼は兵を出して伊庭氏を討ったが、却って敗れ、高頼は音羽城に逃れた。

 伊庭出羽守貞隆は援軍細川政元の家臣赤沢朝経と共に音羽城を包囲したが、落とすことができず敗走した。
この籠城戦での糧水が乏しいのを体験した蒲生貞秀は、翌年中野に城を築き、ここ中野城を居城とし、音羽城を属城とした。

 貞秀は老後家督を長子秀行に譲ったが、秀行は父に先立ち死去した。その子秀紀はまだ幼かったために秀行の弟、高郷は秀紀に代わって宗家を継ごうとしたが貞秀はこれを許さなかった。

 貞秀の死後、高郷は所領配分の少ないのを不服として大永2年(1522)六角定頼の援けを得て秀紀の音羽城を攻めた。籠城8ヶ月に及んだ後、秀紀は降伏し、定頼の調停で両家分立とした。この時に音羽城は破却され、秀紀は鎌掛城を高郷は中野城を居城とした。
秀紀も母、妻も城内の井戸に身を投じ、蒲生家嫡流は滅ぶ。この後、高郷の子、定秀が蒲生家の家督を継いだ。

 定秀の子賢秀は信長に仕え、本能寺の変の際には安土城二の丸で留守を預かっていた賢秀は、秀郷と図って信長の妻女を急ぎ中野城に移し、戦備を整えて光秀の招聘には応じなかった。

 その後、秀郷(後の氏郷)は秀吉に従い多くの戦功をたてたことから、天正12年(1584)には伊勢松坂12万石の領主となり松ヶ島城へ移り、その後松坂城から会津黒川城42万石(後の若松城)に移封された。
 
 日野城には、蒲生氏あとに田中吉政や長束正家が城代として入ったが、慶長8年(1603)には廃城となった。





近隣の史跡・観光
信楽院(蒲生氏の菩提寺)
蒲生郡日野町村井1500
TEL 0748-52-0170

 信楽院から南西の畑を越えたところの竹藪には、蒲生貞秀(がもうさだひで)廟所がある。
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ブルーメの丘
蒲生郡日野町西大路864-1
TEL 0748-52-2611

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滋賀農業公園で、園内はバラ園、ハーブガーデンなどのお花畑の他アスレチックなどもある。

鎌掛シャクナゲ渓
蒲生郡日野町鎌掛

 高山植物の日本シャクナゲが標高300〜400mの低地の谷筋に約2万本群生しており、国の天然記念物に指定されている。開花時期は4月下旬から5月上旬。
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近江日野商人館
蒲生郡日野町大窪仕出町1011
TEL 0748-52-0007

 日野は江戸時代わが国の経済界で大きな役割を果した近江日野商人の出身地で、日野商人館は母屋が木造瓦ぶき2階建の典型的な日野商人本宅の特徴をそのまま残している。
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