近江 中島城
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 城郭の概要
所在地:東浅井郡湖北町丁野
別 名 : −
築 城 :天正元年(1573)
初城主: −
区 分 :平山城
遺 構 :土塁,横堀
城 域 :100m×100m


 現地への案内

 国道8号線川崎町信号東入、西上坂町
詳細位置はコチラ 

 駐車場
谷田神社前に2台
【訪 城】2000年10月,2007年12月
【撮 影】2007年12月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

副曲輪から主曲輪に至る虎口
副曲輪から主曲輪に至る虎口

 現地の状況
 中島城は岡山の山頂に築かれた丁野山城の東方約300mほどの距離にあり、丁野山城とは尾根続きの標高50mほどの小山に築かれている。
近年登城道が整備され、岡山の南側にある谷田神社の東約200mの地点から登ることができ、5分たらずで中島城に着く。

 曲輪配置は東西に10m四方の2つの曲輪を連ね、共に周囲を高さ1〜2mの土塁を巡らせ、曲輪の東側斜面には堀切を配している。
主曲輪内部
主曲輪内部

主曲輪から副曲輪をみる
主曲輪から副曲輪をみる

 城郭の歴史
 元亀4年(1573)織田信長の小谷城攻めの時に、中島宗右衛門直親が守備していたと伝えられている。




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野暮の独り言〜中島城の遺構に関する一考察

 この中島城は元亀4年の織田軍による小谷城攻めの際に朝倉軍が立て籠もっていた丁野山城とは指呼の距離にあり、また、現地案内板には同年には浅井氏の家臣・中島宗右衛門直親が守備していたと記されており、浅井・朝倉軍の城として観ていたのだが、中島城の遺構はどうにも腑に落ちないというか、何か不自然なものを感じた。
何かがおかしいのかと思いつつ、ようやく気づいたのが中島城の曲輪配置である。

 中島城は大きくは2つの曲輪から構成されており、虎口の配置、および土塁の高さからみても主曲輪はAの曲輪で、Bの曲輪は副曲輪である。

中島城の縄張り図

 一般的に連郭式城郭の曲輪配置は、主曲輪を中心にして前後に曲輪を配していく。ところが曲輪が2つの小振りな城の場合、主曲輪の前面に副曲輪を置くのが常識である。これは主曲輪が直接敵の攻撃にさらされないことを配慮する当然の措置である。

 この常識からすれば中島城は副曲輪(Bの曲輪)のある西側に敵を想定して築城されているのだが、西方には丁野山城が位置している。つまり、中島城は西方の丁野山城を敵方としていたことになる。

 丁野山城一帯は元亀4年の織田軍による小谷城攻め以降は、軍事的な緊張、および戦いはない。湖北では、唯一天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いがおこなわれているが、賤ヶ岳の戦いは余呉湖周辺の局地戦であるため、この中島城の遺構は元亀4年当時のものであると断定しても間違いはない。
だとすれば、丁野山城に立て籠もった朝倉氏に対して、中島城は織田軍が改修し丁野山城に対する付城として機能していたということになる。


 付城といえば、元亀元年(1570)に姉川の戦いで敗れた浅井氏家臣の磯野員昌が佐和山城に籠城した時、織田軍が4つの付城を築いている。また、天正6年(1578)高天神城の武田軍に対し、徳川家康が獅子ヶ鼻砦小笠山砦火ヶ峰砦など6つの付城を築いているが、いずれの場合も付城は1〜3kmほどの距離で、丁野山城に対する付城・中島城の距離は異常に近い。
これは元亀4年当時、織田軍が浅井・朝倉軍に対して軍事的に極めて優勢であったことを物語っているのではないだろうか。
 こう考えると、元亀4年8月12日に織田軍によって大嶽城を落とされただけで、田上山に陣取っていた朝倉義景が夜半に越前に向けて撤退した疑問も解ける。


 元亀4年当時の丁野山城、および朝倉義景が撤退したことについて、「信長公記」の元亀4年の条に記述があるので、以下に引用し紹介する。

丁野山城に関する信長公記の記述

----------------------------信長公記の引用 ココカラ
 八月十二日、大づくの下、やけおへ、浅見対馬覚悟にて、御人数引き入れ候、其の夜は、以外の風雨にて候と雖も、虎御前山には信長公の御息勘九郎殿を置き申され、信長、雨に濡れさせられ候て、御馬廻召つれられ、大山、大づくへ御先懸けにて攻め上らせられ、既に乗り入るべきところ、越前より番手として、斉藤・小林・西法院、三大将の人数五百ばかり楯籠り、色々降参仕り候。尤も討ち果たさるべき事に候へども、風雨と云ふに、夜中、大づく落去の体、朝倉左京太夫存知せられ間敷候の間、此者ども命を助け、敵陣に送り遣はされ、敵陣に送り遣はされ、此の表抱へがたき仕合せ、敵の勢衆に知らせ、
---------------------------- 中略
 信長御諚には、疋壇・敦賀の身方城を心懸け、退くべく候間、疋壇口へ人数を付け候へと、御諚候。妙案なり。中野河内口へは雑兵を退け、朝倉左京太夫、名ある程の者どもを召し列れ、敦賀をさしてのがれ候。頓て、刀根山の嶺にて懸け付け、心ばせの侍衆、帰し合ひ帰し合ひ、相支へ、塞ぎ戦ひ候へども、叶はず、敦賀まで十一里、追ひ討ちに、頸数三千余あり。
---------------------------- 中略
 同日、落城の数 大づく、やけ尾、つきがせ、ようの山、たべ山、義景本陣田上山、引壇、敦賀、志津が嶽、若州栗屋越中所へさし向け候て、付城共に、拾ヶ所退散。
----------------------------ココマデ


信長公記の要約

 信長公記の内容を要約すれば、以下のようである。

 8月12日に浅見対馬守の手引きで大嶽城の下にある焼尾砦に入り、大嶽城へ攻め入った。大嶽城には朝倉勢の斉藤・小林・西法院を大将として五百人ほどが立て籠もっていたが降参してきた。信長公は、本来なら打ち首にするところであるが、夜中の風雨のこととて朝倉義景は大嶽城が落ちたことを知るよしもないので、敵陣に送り返し大嶽城が落ちたことを知らしめよと下知された。

 信長公は、朝倉義景は疋壇城,手筒山城、金ヶ崎城を頼りに退却するであろうから、疋壇口に伏兵を置いておけと指示された。大嶽城が落ちたとの知らせを受けた朝倉義景は、手勢を北国街道の河内方面から越前に向かわせ、義景自身は馬廻り衆だけを従えて刀根街道から敦賀へ逃れるところを織田軍は刀根峠にて追いつき、敦賀までの11里の間に3,000人余りを討ち果たした。

 こうして8月12日に織田軍が落とした城の数は、大嶽城、焼尾砦、月ケ瀬城、丁野山城、田部山城、義景の本陣・田上山城、疋壇城手筒山城金ヶ崎城、賤ヶ岳砦、若狭栗屋越中守の居城・国吉城への付城など、併せると10城となった。

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