三田村城
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 城郭の概要
所在地:長浜市三田町
別 名 : −
築 城 :文治・建久年間(1185〜99)
初城主:三田村氏
区 分 :平城
遺 構 :土塁
城 域 :50m×50m


 現地への案内

 国道367号線三田地区
詳細位置はコチラ 

 駐車場
 伝正寺本堂横に10台
【訪 城】2000年10月
【撮 影】2000年10月

評価項目 見所評価
選地 ★☆☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

伝正寺の鐘付堂と土塁
伝正寺の鐘付堂と土塁


伝正寺の境内を取り巻く土塁
伝正寺の境内を取り巻く土塁

 現地の状況
 現在の伝正寺が三田村城址である。三田地区(旧浅井町三田)に入ると、人に聞くまでもなく高い土塁が目印となり一目で分かる。
 伝正寺は三田村城が廃城となってから移築されたと聞く。現在では本堂の横に住職の松波氏がお住まいである。

 伝正寺の周囲には高い土塁が今も残っているが、北側土塁は一部を除いて失われている。東側に虎口が設けられているが、この虎口は寺の正面入り口としても使われている。
 伝正寺境内の南東隅に三田村氏に関係する祠があったが、1998年の台風19号により倒れた桧によって崩壊したため、現在では“三田村氏有縁の碑”が建てられたという。
三田村氏有縁の碑
三田村氏有縁の碑

 城郭の歴史
 天正年間、三田村氏は浅井氏の家臣として、野村氏と共に横山城の守将を勤めていたが、横山城落城後は小谷城に入る。

 元亀元年(1570)信長軍と浅井・朝倉軍による姉川の戦いで三田村左衛門は討死した。
 この時、須川城主の遠藤喜右衛門は戦友三田村左衛門の首を掻き取り、顔に血を塗って、紙を振り乱し、「御大将は何処におわしますぞ。浅井の大将三田村左衛門の首を討ち取って参った」と大音声で呼ばわり、信長の本陣に近づいた。ところがかねてより顔見知りの竹中半兵衛の長男久作が、これを見とがめ、すんでのところで捕まり、首をはねられたという。(浅井三代記)

 姉川の戦い後、三田村一族は各地に逃れたため、この三田地区には"三田村姓は一軒もないと云う。
 多くは新潟県や福井県に逃れてと伝えられ、昨今「三田村会」が結成され、全国から三田村氏発祥の伝正寺を訪問されたとか。俳優の三田村邦彦氏も、その末裔で訪れたことがあるという。




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