近江 箕浦城
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 城郭の概要
所在地:米原市箕浦
別 名 : −
築 城 : −
初城主:土肥氏
区 分 :平城
遺 構 :曲輪跡
城 域 : −

 現地への案内
交通機関
国道21号線岩脇口東入天野川渡る

詳細位置はコチラ 

 駐車場
宝福寺前の空地に5台

【訪 城】2000年10月,2008年3月
【撮 影】2000年10月,2008年3月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り


箕浦城址
箕浦城址


 現地の状況
 箕浦城は米原市箕浦の浄土真宗本願寺派・久徳山宝福寺の裏手に位置し、北へ100mほどの所に高さ1mほど土盛をした約20m四方の平坦地一帯で、現在も“殿”字名が残る。

 この城は京極氏の筆頭根本被官「今井氏」の居城とされ、明治7年の絵図から推定すると北は通船川あたりまで、南は天野川から水路を引き込み堀としていた。

 箕浦は琵琶湖の朝妻湊を控え、中世の坂田郡内において物流、交通の要所として箕浦市場が開かれていた所でもあり、宝福寺前には箕浦市場の石碑が建てられている。
 今井氏はこうした箕浦市場からの経済力をバックに京極氏の筆頭被官となったことが窺える。
また、近くには今井氏の家臣・井戸村氏の屋敷跡もある。
箕浦市場跡
箕浦市場跡

 城郭の歴史
 箕浦城は箕浦荘の領主今井氏の本城で、今井氏の祖は藤原俊景の三男俊綱(九郎)である。
 最初、箕浦荘の地頭は土肥氏であったが、のちに今井氏が支配するところとなり、京極氏の家臣となった。
 応仁元年(1467)に始まった応仁・文明の乱のとき、近江においては京極、六角の同族二氏の争いとなり、今井高遠(美濃守)は京極持清に従うが、後に六角氏の旗下に入る。

 元亀元年(1570)6月28日、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍が激突した姉川の戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わったが、同年9月本願寺11世法主顕如が各地の本願寺の末寺に対し檄文を飛ばし対信長戦争への宣言布告が行われ、翌元亀2年(1571)に湖北十ヶ寺は信長に徹底抗戦する盟約書を交わした。

 この一揆勢力の力を借りて、浅井長政は元亀2年5月、五千人の軍勢で堀秀村の箕浦城を攻撃した。横山城を守っていた木下藤吉郎はこれを知り箕浦へかけつけた(箕浦合戦)。

 一揆勢を中心とした浅井軍は統率がとれず、下長沢で両軍が激突したが浅井軍は退却を余儀なくされ、さいかち浜、下坂浜、今浜と衝突をくりかえしたが、五千人の浅井軍は、わずか五、六百人の木下藤吉郎・堀秀村の軍に敗れた。

 この時、おびただしい数の農民(一向宗徒)が非業の死をとげたとされる。さらに、前後の決死の戦いで犠牲となった門徒僧俗の霊を弔う鎮魂の碑、「殉教万人塚」が福田寺境内の本堂南側に建立されている。


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