近江 目加田城
HOME湖東地区
 城郭の概要
所在地:愛知郡泰荘町目加田
別 名 : −
築 城 :天正4年(1576年)
初城主:目加田摂津之守貞政
区 分 :平城
遺 構 :本丸跡,土塁,堀,門跡
城 域 :100m×100m

 現地への案内

国道307号線・秦荘
詳細位置はコチラ 

 駐車場
目加田公民館前の空地を利用

【訪 城】1999年6月,2005年1月
【撮 影】2005年1月

評価項目 見所評価
選地 ★☆☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り



目加田城本丸跡に建つ石碑
目加田城本丸跡に建つ石碑

 現地の状況
 目加田城は目加田地区の公民館横にある。
目加田城が公園として整備されたのは2004年11月で、整備前と較べて土塁周囲や土塁上の藪や雑木が伐採され、土塁の大きさが見えるようになったが、整備前には存在した堀が消失しており、今では現地の縄張り図から想像するしかない。

 果たしてこうした整備が、本当の整備といえるのだろうか。関係者にはもう一度考えて欲しいと思う。
 なお、1999年当時の目加田城の状況はこちら。

本丸跡の土塁
本丸跡の土塁
 城郭の歴史
 目加田氏は藤原氏の流れを汲み愛知郡八木庄、蒲生郡豊浦庄などに点在する藤原氏の荘園を管理する荘官であったが、次第に勢力を拡大し、鎌倉中期には六角氏の居城・観音寺城の北尾根の先端にある目加田山(現在の安土山)に城を築き、目加田氏を称した。

 鎌倉中期から南北朝期、室町期にかけて佐々木六角氏の被官となり旗頭の一旗として権力を振るった。
 永禄6年(1563)六角氏の観音寺騒動の後、江北の浅井長政に従っていたが、永禄11年(1586)織田信長の近江進攻時に、他の六角氏有力家臣等と共にいち早く信長に降伏し、その配下となって所領を安堵された。

 天正4年(1576年)織田信長が安土城を築くに当たり、目賀田山(現在の安土山)が選ばれれたことで、第42代当主・目加田摂津之守貞政は所領地である光明寺野(今の目加田)の新たに城を築いた。所領は愛知川,中宿,沓掛、佐生,七里など2万石であった。

 天正10年(1582)本能寺の変が起こり、明智方についた目加田家43代当主・目加田摂津之守堅政は浪人となり、慶長2年(1597)に目加田城は廃城となった。

HOME湖東地区

近江の城郭