刈安尾城
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 城郭の概要
所在地:米原市弥高
別 名 :弥高百坊
築 城 :永享〜寛正年間(1429〜1464)?
初城主:京極高清
区 分 :山城
遺 構 :土塁,竪堀,横堀,枡形虎口
城 域 : −
     標高 666m
     比高 380m

国指定史跡


 現地への案内

 平野神社奥の山道に3台程度
詳細位置はコチラ 

 駐車場
約5台(伊吹神社鳥居前)
【訪 城】2003年3月
【撮 影】2002年3月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★★★
お勧め度 ★★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り




主曲輪背後の堀切・土橋

 現地の状況
 刈安尾城へは上平寺地区の伊吹神社から上平寺城を経て登ることもできるが、ここでは地元弥高地区からのルートを紹介する。
尚、現地の標識等はすべて弥高百坊と書かれているが、ここでは刈安尾城の表現で統一する。

 弥高地区の平野神社横の小道を行くと、すぐに2又の岐路に出る。ここから山手に道をとって約40分で弥高百坊下の駐車場に着く。この間、林道と交差するので、この林道を登ってきても良い。駐車場の手前に長さ30mの大きな竪堀が2本確認できる。更に10分ほど登ると大門に出る。

 この大門は本丸への虎口にあたり、分厚い土塁で枡形虎口が形成されている。滋賀県下の土塁の城で、これだけ見事な枡形虎口のある城はない。

 枡形虎口と隣接して本丸東側には空堀が配置されている。こうした縄張りは近世城郭そのものといえ、元亀元年の対信長戦(姉川の戦い)に備えて改修されたものであることは明らかである。
 大門を抜け、本丸へは平虎口を経て入る。この本丸が弥高百坊の本堂跡であり、広さは南北約35m、東西約45mの方形をなし、広い本丸跡とともに関ヶ原方面から長浜一帯の展望が開け気持ちよいことこの上ない。

 本丸は東〜南〜西の三方に土塁を巡らし北東隅には南北20m×東西18m程の櫓台が確認できる。南側の分厚い土塁なども浅井氏の改修に伴うものと考えられる。

 現地に案内板には弥高百坊の坊跡が二十種箇所確認できるとあるが、それ以上あるのではないかと思えるほど広大な地域であるが、緩斜面に配置された曲輪はあくまでも坊跡を利用したものであり、城として防御を考慮したものではない。

 本丸周囲に木立はなく、谷を隔てた上平寺城が手に取るように見える。この間直線距離にして300〜400m、城中の人の動きも分かるぐらいの距離である。この上平寺城へは山腹に造られた山道を歩いて約15分。

 なお、この本丸から更に登ること約5分程度で規模の大きな堀切に出る。このような高所にあって背後は標高1,000mを超す伊吹山、今更堀切の必要もないと思うのだが、当時は伊吹山を越えて美濃の春日地区に通じる道があったとされ、こうした間道への配慮か。



 城郭の歴史
 刈安尾城は伊吹山の支尾根の山腹にある弥高百坊跡に京極氏が築城したとされており、「江北記」には刈安尾城について以下の記述がある。
----------------------------ココカラ
 「大吉寺の梅本公事故浅井。三田村。堀。今井。其外前より牢人衆浅見に申談。小野江の城に籠候。今濱より取懸。安養寺に番勢を置候処。自小野江被掛合戦におよび上坂随分衆数多打死候。其まま今濱破候。環山寺殿上治と為御同心候間。国衆悉く上手へ参候。かりやす尾の御城より御忍にて尾州へ御取退候」
----------------------------ココマデ

 上記記述の環山寺殿とは京極高清のことで、浅井三代記でも高清のことを"上平殿" といった呼び名を使っていることでも、高清の居城が上平寺城であったことは間違いなく、持清が居城と定めてから高清、及びその子高延,高慶の家督争いが決着する頃まで京極氏の居城であったようである。
 この頃の刈安尾城は現在の上平寺城も含めて、刈安尾城として機能していたことが推察される。

 元亀元年(1570)浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦った姉川の戦いに際し改修されており、そのことが信長公記に「さる程に浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構へ候・・・云々」と書かれている。
 ちなみの「たけくらべ」とは長比城のことで、 いずれも江濃国境近くにあり、刈安尾城は北国脇往還道(現国道365号線)沿いにあり、長比城は中山道(現国道8号線)沿いに位置している。

刈安尾城から見た上平寺城
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