近江 磯山城(虎ヶ城)
HOME湖北地区
 城郭の概要
所在地:米原市磯
別 名 :虎ケ城
築 城 : −
初城主:松原弥三右衛門成久
区 分 :平山城
遺 構 :土塁,曲輪
城 域 : −

 現地への案内
交通機関
湖周道路の彦根市と米原町との境の磯山神社
詳細位置はコチラ 

 駐車場
磯山神社前に2〜3台

【訪 城】1999年5月
【撮 影】1999年5月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り




磯山城の主曲輪
磯山城の主曲輪

 現地の状況
 磯山城は西端を琵琶湖に接し、尾根が東に延びる独立した磯山の尾根に築城されている。
東には中山道が通り、磯山と中山道の間には佐和山から物生山まで続く尾根が横たわる。

 昔、磯山は"指合" と呼ばれる内湖、松原内湖、及び琵琶湖に周囲を囲まれた地形だったといわれる。
 こうした地形を利用して、磯山の北端に磯山城、南端に虎ケ城とふたつの城が築かれているが、現在では内湖はすべて干拓され、琵琶湖の水位は下がり、昔の磯山の姿はない。

 磯崎神社の石段を登り切ると、視界の開けた平地に出る。幾つもの社が祀られており、その中には日本武尊の社もある。
平安末期、都に攻め上る木曽義仲が日本武尊の社で勝利を祈願をしたとも伝えられている。

 日本武尊の社から一段登ったところの平地が磯山城の主曲輪である。主曲輪からは北方の眺望はすこぶるよく、長浜方面から近江町までを一望でき、天気が良ければ山本山、伊吹山を見通せる。

 主曲輪の西側斜面には数段の曲輪らしき地形を認めるが削平は不完全で、自然地形との区別が難しい。
一方、東側斜面の階段状曲輪は比較的削平状態も良く、切岸下には横堀と土橋が確認でき、磯山城が東を通る中山道に向いて機能していたことが推測できる。また、尾根の南にも階段状の曲輪が至る所で確認できる。

 更に10分ほども歩くと、ほどなく磯山の東端のピークに出る、ここが虎ヶ城である。虎ケ城の東端ピークの曲輪は磯山山中で最も広く、中でも物生山側の斜面に面した部分はきれいに削平され周囲に帯曲輪を伴っているが、削平は不完全である。
 東に続く尾根にも階段状に曲輪が認められるが、強い防御意識は感じられない。むしろ磯山に続く西側の尾根のほうが防御意識が高い。

 磯山城から虎ヶ城まで歩いたが、結局両城の境界を見極めることは出来なかった。これも磯山城と虎ヶ城が境目の城として、敵対あるいはひとつの城として機能する中での遺構が入り乱れ、重なり合った結果と考え
られ、これらの城の遺構を個別に論じることはできない。

 城郭の歴史
 永正7年(1510)松原弥三右衛門成久が守備する磯山城は、浅井軍に攻められ落城し、城主・松原弥三右衛門成久は切腹したと伝わる。

 元亀元年(1570)織田信長が磯野員昌が立て籠もる佐和山城を攻略するために、4つの付城を築いたとされ、そのうちの「北の山」が磯山とも考えられている。
近年、この北の山を物生山とする考え方もある。

 慶長5年(1600)関ヶ原合戦後、近江に所領を得た井伊直政が佐和山城を廃し、新たに城を築く(彦根城)際に、この磯山が荒神山とともに候補のひとつにあげられるなど謂われの多い山である。
 また、彦根市にあった磯崎城は、この磯山城のことではなかったかとも考えられている。


【佐和山城の支城としての磯山城】
 浅井三代記の「江北勢佐和山ヘ押寄ル事」の中に、佐和山城を守備する六角方を攻める京極勢が太尾山城に布陣し、軍を二手に分けて、佐和山の裏手にある磯山を堀能登守,新荘駿河守,野村伯耆守,同肥後守等が攻めたと記述されており、磯山城が佐和山城の支城として機能していたことがわかる。

 この磯山は佐和山や彦根山ほど高くなく、また山自体も小さい。
仮に彦根城がこの磯山に築かれていたら、どんな城になっていたのか等と想像するとのも城巡りの面白さである。 


HOME湖北地区

近江の城郭