近江 伊庭城(別名 伊庭陣屋)
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 城郭の概要
所在地:東近江市伊庭町
     (旧神崎郡能登川町伊庭)
別名 : 伊庭陣屋
築城 :建久年間
初城主:伊庭高実
区分 :平城
遺構 :堀,石垣
城域 :100m×50mか

 現地への案内
交通機関は車を利用
県道2号線、能登川の信号を西入る
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 駐車場
謹節館前に駐車
【訪 城】1997年7月,2008年2月
【撮 影】1997年7月,2008年2月

評価項目 見所評価
選地 ★★
縄張り ★★
普請 ★★
体力消耗度 ☆☆
お勧め度 ★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り







伊庭城の周囲を廻る堀

 現地の状況
 伊庭城は六角氏の居城・観音寺城の約6km、下街道(現県道2号線)から2kmほど西へ入ったところの伊庭集落の一角にある。当時は伊庭内湖を背後に控えた要害の地にあったと推定されるが、現在では伊庭内湖は埋め立てられ、

 現在、城址といわれるところには、謹節館,老人いこいの家が建っており、謹節館の建っているところを"西殿"という。その他に "東殿"という字もあるようである。

 伊庭地区を流れる瓜生川(うりゅうがわ)を巧みに利用して堀としており、現在も三方を川が廻っている。川が廻らされた範囲を城域と仮定すれば、100m×50mほどか。


 城郭の歴史
 建久年間、観音寺城主・佐々木行実の四男・高実が伊庭氏を名乗ったのを初めとし、代々伊庭の地を領してきた。

 南北朝時代から室町時代にかけて、伊庭氏は目加田氏,馬淵氏,蒲生氏,小倉氏,嶬峨氏等と共に、守護代として近江支配の実権を握っていたが、後年六角家に対し反乱を起こし滅ぼされる。(伊庭の乱)
 支流は近江八幡西宿(西宿城跡横)にて後年まで、存続する。

 元禄11年(1698)三枝氏が、近江の神崎郡、蒲生郡、および野洲郡内に7,000石を知行(うち2,000石は伊庭)し、この地に陣屋を構えた。
 明治維新後、建物の一部を利用して村役場となり、明治12年に伊庭小学校が建ち、現在では謹節館が建っている。

 なお、観音寺城の一画にある伊庭邸には城内でも一、二の高さを競う高石垣が組まれている。

現在も名残をとどめる堀と石垣

伊庭氏の乱

 佐々木定綱以来、約300年にわたって近江を支配してきた近江守護職・六角氏は応仁・文明の乱以降、近江における支配を盤石なものにした。こうして、六角氏が守護職として確固たる地位を築けた背景には、寺社,将軍の奉公衆等の領地を押領する形で、近江における領地支配の強化があげられる。
 この領地押領が原因となり、長享元年(1487)足利義尚による第一次六角征伐、および延徳3年(1491)の足利義材による第二次六角征伐と、二度にわたって近江親征がおこなわれた。
 六角氏は近江親征の難局を家臣団とともに乗り越えたが、この近江親征によって守護代・伊庭氏の発言権が増すこととなった。

 文亀2年(1502)10月、伊庭氏の勢力拡大に危機感を覚えた六角高頼は伊庭貞隆の排除に動き、高頼は一時勝利するが、管領細川政元の支援を得た伊庭貞隆によって青地城馬淵城永原城を落とされ、高頼は居城・観音寺城を捨て蒲生貞秀の音羽城に落ち延びた。(第一次伊庭の乱)
 こうして主家・六角氏との戦いに勝利した伊庭氏は六角氏をも凌ぐ権勢をもつようになる。

 永正4年(1507)管領細川氏の家督争いがもとで管領細川政元が家臣に暗殺されると、政元の庇護のもとで11代将軍として擁立されていた足利義澄は、大内氏の援護を受けて上洛した前将軍足利義材によって将軍職を追われた。

 都落ちした足利義澄は伊庭貞隆によって伊庭氏の家臣・九里備前守の水茎岡山城で保護されたが、義材派であった六角高頼との対立が再燃。永正8年(1511)足利義澄が水茎岡山城で没すると、六角高頼は好機到来と水茎岡山城を攻め九里備前守を討った。

 この水茎岡山城の戦いを契機に、六角氏と家臣・伊庭氏との戦いは永正11年(1514)から6年の長きにわたって続くが、永正17年(1520)水茎岡山城が陥落して内乱は終結し、伊庭氏は没落した。(第二次伊庭の乱)

水茎岡山城の岡山を遠望

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