近江 東野山砦(別名 左禰山砦)
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 城郭の概要
所在地:伊香郡余呉町東野
別 名 :実山砦,左禰山砦
築 城 : −
初城主:東野氏
区 分 :山城
遺 構 :土塁,横堀,虎口,竪堀
城 域 :250m×150m

町指定史跡


 現地への案内

 国道365号線余呉町東野
詳細位置はコチラ 

 駐車場
林道に路上駐車
【訪 城】2002年7月,2008年4月
【撮 影】2008年4月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

東野山砦の主曲輪と虎口
東野山砦の主曲輪と虎口

 現地の状況
 東野山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍の堀秀政が布陣した砦である。
 この東野山砦は羽柴秀吉軍の最前線に位置し、谷を挟んで北には今市上砦、北国街道を挟んで西側には佐久間盛政の行市山砦と対峙する。
 天正11年(1583)4月20日、行市山砦の佐久間盛政は中川清秀の大岩山砦を急襲し、“中入り”を成功させた。翌21日早朝、大垣からとって返した羽柴秀吉が大岩山砦を攻撃した時、玄蕃尾城から出陣して北国街道を南下してきた柴田勝家を北国街道の狐塚に釘付けにしたのが、この東野山砦に布陣した堀秀政軍である。

 東野山砦へは余呉小学校の南側から林道・東野中之郷線を車で約10分ほど登ると砦横に着く。訪れた時は砦一帯の下草が刈られており、下草の多い時期にも関わらず、状態良く残された遺構を見ることができた。地元の方々に感謝!

 東野山砦の縄張りは複雑で、賤ヶ岳の戦いで築城された陣城の中にあっては玄蕃尾城とこの東野山砦は双璧である。虎口は東西南北の四方に設けられており、いずれの虎口も折れを入れか、横矢掛けが考慮されており、土塁を石垣に替えれば、まさに近世城郭の縄張りである。

 中央部に主曲輪を置き、主曲輪の東西と南側に曲輪を配置し、北側は斜面を利用する形で築城されている。主曲輪を除いた3つの曲輪に虎口が設けられているが、主曲輪の東(背後)の曲輪には南北2つの虎口がある。つまり南側の秀吉陣側と北側の勝家陣側に虎口を設けており、この曲輪が守備と迎撃の中心的な役割を担っていたことが想定される。
 また、主曲輪の北側には物見台と考えられる高台があり、ここからは佐久間盛政や前田利家が陣取った行市山別所山を真正面に望むことができる。

 滋賀県中世城郭分布調査資料(滋賀県教育委員会発行)によると、更に北側には尾根を断ち切る形で堀切・土橋が設けられていたようだが、現在では林道建設に伴い破壊されてしまっている。
 南側には竪堀が麓まで続いているのだが、雑木,雑草が多く確認できなかった。落葉期にはもう一度訪れたい。

 余呉町には賤ヶ岳の戦いに伴い、20を越える陣城が作られているが、ここ東野山砦や玄蕃尾城は、天正年間における築城技術(縄張り)の粋が凝らされており、織豊系城郭の築城技術の発達を観る上で非常に貴重な遺構である。

東野山砦の縄張り図
 城郭の歴史
 東野山砦は別名実山砦(さねやまとりで)とも称し、京極氏や浅井氏が湖北に君臨していた頃より、その支配下にあった豪族東野備前守一族の居城のあったところである。
 天正 11年(1583)の賤ヶ岳の合戦には、羽柴秀吉方の勇将で佐和山城主であった堀秀政がここに砦を築き、行市山に陣する柴田勝家方の佐久間盛政と対陣した。堀秀政は、ここを拠点として北国街道を南下しようとする柴田勝家軍を牽制することで秀吉軍の勝利に貢献した。
 現在残っている遺構は、豪族東野氏の構築したものではなく、賤ヶ岳合戦に堀秀政が構築したものと考えられる。

現地案内板を一部修正




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主曲輪周囲の空堀
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