近江 肥田城
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 城郭の概要
所在地:彦根市稲枝町肥田
別 名 : −
築 城 :大永年中(1520年前後)
初城主:高野瀬備中守隆重
区 分 :平城
遺 構 :土塁,堀
城 域 :100m×100m

戦 い :永禄3年(1560)
   △浅井長政,高野瀬秀澄
     VS
   △六角義賢

 現地への案内

県道2号線より肥田へ
詳細位置はコチラ 
  多分、この辺りです。(^^:
 駐車場
肥田公民館の駐車場を利用
【訪 城】1999年6月
【撮 影】1999年6月,2008年9月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

山王祠のある肥田城址
肥田城址

 現地の状況
 肥田城跡を示す石碑が肥田公民館前に建てられているが、元々この石碑は公民館の北方にあったものを移されたものである。

 肥田城址の位置ははっきりとはしないが、公民館から北西約200mの山王祠辺りから木簡と古銭が出土したこと、および山王祠周辺に丹波屋敷,民部屋敷,藤蔵屋敷、および勘解由屋敷といった小字名が残っていることから、山王祠辺りが肥田城の本丸(主曲輪)だといわれている。しかし2008年には山王祠も消失し、圃場整備が進められている。

 公民館の南西約200mには、高さ1〜1.5mほどの土塁と堀跡が約300mほどにわたって残されており、この土塁は家臣屋敷だけではなく町屋も取り込む形で築かれており、肥田城は惣構えの城であったことが窺える。

 公民館に隣接する崇徳寺は肥田城主の菩提寺でもあり、肥田城を築いた高野瀬氏累代の墓、および蜂屋頼隆、長谷川秀一の墓がある。
また、歴代の肥田城主・高野瀬隆重,高野瀬秀隆,蜂屋頼隆、および長谷川秀一の肖像画、と位牌がある。

 崇徳寺は臨済宗建仁寺派で山号を大智山といい、寺伝によれば高野瀬隆重によって建立されたという。
崇徳寺には、室町幕府第2代将軍足利義詮、第12代将軍足利義晴から崇徳寺に宛てた手紙や六角氏が発給した禁制などが保管されている。
 なお、崇徳寺や公民館には肥田城の再現図がある。
肥田城址の碑
肥田城址の石碑

 城郭の歴史
 肥田城は愛智氏の支流である高野瀬隆重によって、 宇曽川の左岸に築城された。
永禄2年(1559)江北・浅井氏と江南・六角氏の国境に領地をもつ肥田城主・高野瀬秀隆は小谷城の浅井賢政(後の長政)と通じた。当時の浅井氏は、六角氏属国からの独立を模索していた。

 肥田城が浅井氏の支配下になると、観音寺城の六角義賢(後の六角承禎)は軍を起こし、宇曽川を堰き止め肥田城を水攻めにしたが、折りからの大雨で堤防が決壊し水攻めは失敗に終わった。
 翌永禄3年(1560)六角氏と浅井氏は肥田城の西、野良田で相まみえたが、寡兵の浅井氏の勝利するところとなり、この時から浅井氏は娶っていた六角氏の家臣・平井氏の女を追い返すとともに、賢政改め長政と名乗り戦国大名への道を歩み始めた。

 永禄11年(1568)近江に進攻した織田信長は、元亀元年(1570)に野洲川の下流の落窪で六角氏に勝利し、天正2年(1574)に江南から六角氏を追放した後、肥田城には蜂屋頼隆を入れた。

 その後、城主は長谷川秀一に替わったが、秀一は文禄の役に従い朝鮮で病死したため、肥田城は慶長年間(1596〜1615)以後廃城となった。





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