近江 行市山砦
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 城郭の概要
所在地:伊香郡余呉町小谷
別 名 : −
築 城 : −
初城主:東野行一
区 分 :山城(砦)
遺 構 :堀切,曲輪
城 域 : −
     標高 660m

 現地への案内
交通機関
国道365号線・今市から林道・池原小谷線へ

詳細位置はコチラ 

 駐車場
林道脇に2〜3台駐車可

【訪 城】2001年4月
【撮 影】2001年4月

評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★☆☆
普請 ★☆☆
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

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お勧め度






行市山砦の主曲輪
行市山砦の主曲輪

 現地の状況
 池原小谷線により標高約400mまで車で上がれる。ここからハイキングコースで別所山砦(標高約448m)を経て約45分で行市山山頂に着く。その間の木之本町,余呉町の眺望は素晴らしい。

 この行市山砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦時に柴田勝家軍の佐久間盛政が陣を構えた所で、勝家の本陣である玄蕃尾城からは直線距離にして約5km。
 なお、行市山に城を構えたのは京極・浅井時代に遡り、東野行一とされており、京極・浅井氏がここに砦を構えた理由は現地に立ってみると頷ける。

 行市山からは余呉町,木之本町を走る北国街道が手に取るように判るが、何分にも高所で、東野行一が砦を構えた当時は監視目的ではないかと考えられる。

 遺構は別所山砦からの尾根筋に堀切が2本と山頂の曲輪跡が残っている。土塁なども残っているようではあるが、曲輪跡の一部を除いてはクマ笹が生い茂り確認出来ない。
 例年4月の末頃までは日陰に40〜50cmの雪が残っており、登城は5月から11月の間がお勧め。
 行市山山頂からは、天気の良い日には日本海が望めるとのことです。野暮は4回ほど登っていますが、未だに見たことはありませんが・・・・(^^:

 行市山から南方の北国街道沿いには、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉方の山路正国が布陣した天神山砦や木村隼人の布陣した堂木山砦,堀秀政の東野山砦、羽柴秀長の田上山砦等を一望することができる。
行市山から北国街道を望む
行市山から北国街道を望む

 城郭の歴史
 天正11年(1583)、余呉湖周辺に布陣した柴田勝家軍と羽柴秀吉軍は2月初旬から4月までの2ヶ月間に及ぶ対陣が続いた。
 4月にはいり、木之本地蔵(浄信寺)に本陣を置いていた秀吉は岐阜城の織田信孝を攻撃。この隙を狙って行市山の佐久間盛政は4月20日に大岩山砦を急襲、大岩山砦に布陣していた秀吉配下の中川清秀は自刃。
 「柴田軍動く」との知らせを聞いた秀吉は、意表を突く早さで大垣から引き返し、大岩山砦の佐久間盛政に反撃を開始。

 この佐久間盛政の大岩山砦の攻撃に端を発して戦局は動き、前田利家の離反もあって柴田軍は敗走、北庄城に逃れた勝家も4月24日に北庄城の落城と共に自刃して、賤ヶ岳の戦いは秀吉軍の勝利に終わった。

 以上、賤ヶ岳の戦いをかいつまんで紹介しましたが、なぜ佐久間盛政が秀吉軍・桑山重晴等が布陣する賤ヶ岳砦を迂回して、大岩山砦を攻撃したのか、その経緯が太閤記の1節「山路将監進中入欲遂宿意企之事」に書かれていますので紹介しておきます。

 ただ、太閤記というのは秀吉が天下を取ってから書かれたもので、あくまでも「勝利者・秀吉」からみた賤ヶ岳の戦いであることを含んだ上で、お読み頂きたいと思います。


---------------- 山路将監進中入欲遂宿意企之事
「同十九日之早朝に、将監佐久間玄蕃允に云やうは、羽柴筑前守一昨日濃州至って発向せしむる由候。
 其意趣は三七殿今度勝家を救はんと思召、秀吉に対し敵之色を立させられ、氏家稲葉が分領放火し給ふに依て信孝を退治せんとの儀なりとかや、然ば信孝御心ざしの程を救ひ給はでは、叶わざる叶はざる事にておはさんか。
 いかゞ思ひ給ふぞやと云ければ、尤助成申度事は飛立計なりと云ども、大山を隔て、大敵其間にあれば、了簡及不事共なり。
何とぞ救ひ奉らん行(てだて)もあらば承度こそ候へと云し時、山路さゝやきけるは、上方より北国勢をおさへ置し取出共の普請は、何も丈夫におはしまし候。余語之海の外なる、中川瀬兵衛尉が有し要害は、多くの取出之城共を隔て、敵あひの遠さを頼みとし、普請請以下かた計にこしらへ候しなり。
 是をうたんなどとは、上方勢思ひもよらざる所に候。然ば不意討に同じ。不意討に利のなき事は稀なる事に候。秀吉卿濃州出勢は折を得たる幸候。いざさせ給へと、ありあり重ねてすめければ、玄蕃いとど進みたき折ふしなれば、即同心し、さらば取出之城々おさへの勢を、勝家へ間奉り定めんとて、同日午刻匠作之陣所へ玄蕃久右衛門兄弟同参して、其旨相議あり。運のつきなん験しかや。

 勝家もいかゞあらんと思惟に及不、行の事共を聞届、宜しがらんと同じ給へり。西の方二ケ所の城のおさへには、前田又左衛門尉利家子息孫四郎利長、志津嶽の押へには原彦次郎、安井左近大夫、堀久太郎取手をば勝家おさへおくべき之条、心安く働き候へ。帰陣には海道を直に退候へ。必宿陣すべからず。今日中に引取候べしとて、廿日之早朝に蝦乞有しが、是ぞ最期の暇乞とは成にける。先陣は不破彦三、徳山五兵衛尉、佐久間久右衛門尉、大将は玄蕃允都合其勢一万余騎余語之入海をつたひ山路たどりたどり急しかば、・・・・・
----------------ココマデ

山路将監:天神山砦に布陣していた山路正国
佐久間玄蕃允:佐久間盛政




賤ヶ岳の戦いにおける柴田軍と羽柴軍の布陣

レポート "賤ヶ岳の軍道(玄蕃尾城〜行市山砦)を歩く"

レポート "再び、玄蕃尾〜行市山の軍道を歩く" 


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