信長の城〜安土城
近江 安土城
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 城郭の概要
所在地:蒲生郡安土町下豊浦
別 名 : −
築 城 :天正4年(1567)
初城主:織田信長
区 分 :山城
遺 構 :天守台・本丸・二の丸・三の丸・八角平・薬師平・黒金門跡・東門跡・土塁・石垣・堀・井戸
城 域 :1000m×1500m
     標高199m 
     比高105m
戦 い :天正10年(1582)
   ○明智光秀
     VS
   ●織田信長

織田氏の紋
織田氏の紋
(木瓜)

 現地への案内

JR琵琶湖線安土駅下車、徒歩20分
県道2号線横、または国道8号線、安土西生来信号西入

 詳細位置はコチラmapfan

JR安土駅前にレンタサイクルあり
料金:500円(半日)、800円(1日)

安土山への入山料金:500円

 駐車場
大手道前の専用駐車場に駐車:約100台。
なお、桜の咲く時期は有料駐車場となる。

【訪 城】2002年8月
【撮 影】2002年8月

評価項目 見所評価
選地 ★★★
縄張り ★★★
普請 ★★★
体力消耗度 ★★☆
お勧め度 ★★★
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り

管理者野暮からの耳寄り情報
 安土城の築城が開始されたのが天正4年、
 その前年の天正3年に武田軍によって岩村城を落とされた織田信長が岩村城を奪還するために築城した小里城(瑞浪市稲津小里)には、安土城と同じような多角形の天主台が築かれています。

 この天主台については、積み直しされている等と云われていますが、築城年からすると信長が安土城築城を意識して、この小里城を建設したと考えられます。

 お城マニアの方には、是非とも一度観て頂きたいと思います。



安土城関連の史跡
安土の血天井
 大崎寺阿弥陀堂の天井は安土城が落城した際の城材で造られており、安土の血天井として知られている。

ハ見寺の裏門
 安土城内にあったハ見寺の裏門が東近江市南須田町の超光寺に位置されている。
ハ見寺の裏門

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お奨め書籍
お勧め度




お勧め度




大手道
大手道

 現地の状況
 安土城では平成元年(1989)から20年にわたって滋賀県城郭研究所によりおこなわれた発掘調査も終わり、整備も完了して豊臣秀吉の築城した大阪城などの近世城郭に先立つ石垣づくりの安土城が再現されている。

 発掘調査の成果としては幾つかあるが、最も大きな発見とされる大手道の両側には伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸などは、16世紀末の武家住宅の全容を明らかにした点で注目されている。
 また大手道に関しては、発掘成果からは以下のようなことが結論づけられている。

(1) 道幅6mの大手道が約100mにわたって直線的につけられていた。
(2) 大手道周辺には、大手門の他に枡形虎口や平虎口など計5つの虎口が確認されているが、大手道は直接外部と繋がっていなかったことが確認された。つまり、大手道は外周道路を経て外部と接続されており、実質的な大手虎口は他にあった。
(3) 大手道は七曲がりを登り切ったところで2つに分岐し、ひとつは三の丸東虎口に、もうひとつは總見寺へと繋がっていたが、直接黒金門に至る道はなかった。(現大手道は七曲がりから伝信忠邸を経て黒金門へと繋がっている)

 このように発掘調査では、従来の安土城大手道に対する考え方を覆す結果が得られている。
お出かけの際には、予備知識をもって訪城されることをお勧めする。予備知識を得る書籍としては、よみがえる安土城(木戸雅寿氏著)がお薦め。

 なお、拙サイトの今月の安土城でも発掘調査中の場所や現地の状況をお知らせしています。

 その他の見所としては、二の丸の信長廟や天皇行幸を目的に建てられたと推測されている内裏の清涼殿を模した本丸御殿跡、および多角形の天主台がある。
 天主台の穴蔵と称される部分には礎石が残っているが、その中央部には礎石がない。内藤氏は礎石が抜けてることから、天守中央部には「宝塔」が置かれていたという説と唱えている。この説は加賀藩の大工棟梁であった池上家に伝わってきた「天主指図」がもとになっている。

 また、本丸から天主台へ通じる石段には、越前支配を任された柴田勝家が安土城の築城に際し、越前から送ったとされる勺谷石が使われている。これは笏谷石に対する当時の価値観を考える上でも興味深い。

 なお、安土城大手道から南東約500mにある「信長の館」には、1992年に開催されたスペイン・セビリア万博へ出展された原寸大の安土城天主(5、6階部分)が展示されている。

二の丸の信長廟
二の丸の信長廟

天主台と礎石
天主台と礎石

 城郭の歴史
 永禄2年(1559年)には尾張一国の支配権を確立した織田信長に対し、西進を企てる今川義元は永禄3年(1560)5月に沓掛城へ進出し、5月19日の桶狭間の戦いへと発展していく。
 桶狭間で今川義元を破った織田信長は、永禄5年(1562年)には今川氏から独立した徳川家康と同盟を結び、永禄6年(1563)に清洲城から小牧山城へと居城を移した。

 永禄7年(1564年)織田信長は妹・市を北近江の浅井長政の嫁がせ、浅井氏と同盟を結ぶと、永禄10年(1567年)には美濃・斎藤龍興の稲葉山城(後の岐阜城)を攻め、美濃国を手中に治めた。
 尾張一国から美濃へと領土拡大を図った信長は、居城を小牧山城から稲葉山城に移すと、井ノ口を岐阜と改名して、この頃から「天下布武」の朱印を用いるようになる。この時点で信長は天下統一を意識していたと考えられる。

 永禄11年足利義昭を奉じて京へ上った信長は、天正元年(1573)浅井氏の救援をする朝倉義景を一乗谷に攻め、返す刀で小谷城の浅井氏を滅ぼし、近江国を平定した。

 天正4年(1576)正月には、岐阜城を嫡男・信忠に譲った後、近江守護職六角氏の居城・観音寺城と峰続きの安土山(比高約100m)に新たな城を築くため、丹羽長秀を普請奉行に任じ、天正4年(1576)から築城を開始。
 約3年の年月をかけて一応の完成をみたのが安土城である。一説には安土城が完成するのは天正9年ともいわれている。

 天正5年(1577)信長は安土に「安土山下町中掟書」を発布した。掟書は13ヶ条からなり、楽市楽座を宣言し様々な負担の免除、治安維持、商人の債権保護、城下への集住を促す内容で、この掟が以後織豊期における城下町形成時の掟として踏襲されていく。

 天正10年6月本能寺の変の後、明智軍に攻められ安土城は落城。信長が近世城郭の先駆けとして築いた地上6階、地下1階の天主は炎の中に姿を消した。

 その後、二男・信雄や織田信忠の嫡男・三法師丸(後の秀信)が入城するが、天正13年(1585)に豊臣秀次が近江八幡の八幡山(鶴翼山)に八幡山城(八幡城)を築いた際に、安土城下の町々を強制的に移転させた後、安土城は廃城となった


 以下、信長公記における安土城についての記述を引用
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安土山御天主の次第
石くらの高さ十二間余りなり。石くらの内を一重土蔵に御用い、是れより七重なり。
二重石くらの上、広さ南北へ廿間、西東へ十七間、高さ十六間な中に有る柱数二百四本立つ。本柱長さ八間、ふとさ一尺五寸、六寸四方、一尺三寸四方木。御座敷の内、悉く布を着、黒漆なり。(中略)
三重め、十二畳敷、花鳥の御絵あり、即、花鳥の間と申すなり。(中略)柱数百四十六本なり。
四重め、西十二間に岩に色々木を遊ばされ、即、岩の間と申すなり。(中略)柱数九十三本立つ。
五重め、御絵はなし。(中略)こ屋の段と申すなり。
六重め、八角四方あり。外柱は朱なり。内柱は皆金なり。(中略)
上七重め、三間四方、御座敷の内皆金なり。そとがは是又金なり。(中略)

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安土城天主台の平面図
安土城天主台復原平面図
関連リンク
安土城天主 信長の館
安土城考古博物館
本能寺信長まつり
ぎふ信長まつり
あづち信長まつり
織田信長と織田一族ゆかりの史跡

安土城をもっと紹介

繖山から安土山と西の湖を俯瞰
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伝羽柴秀吉邸


黒金門
黒金門


馬場平の石垣
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安土城外堀
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黒金門から二の丸への通路
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總見寺三重の塔
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二の丸櫓台の石垣
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