近江 青地城
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 城郭の概要
所在地:草津市青地町
別 名 :部田城
築 城 :鎌倉時代初期
初城主:青地河内守忠綱
区 分 :平城
遺 構 :堀,堀切,土塁
城 域 :

青地氏の家紋:丸に角立ち四つ目


 現地への案内
交通機関は車を利用
国道1号線・おばがわ新橋信号東入る

 詳細位置はコチラ
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 駐車場

【訪 城】2000年9月
【撮 影】2000年9月
評価項目 見所評価
選地 ★★☆
縄張り ★★☆
普請 ★★☆
体力消耗度 ★☆☆
お勧め度 ★★☆
が多い方がお勧め (三段階評価)

体力消耗度
  
:山道はほとんどなし
 
★★:10分〜30分程度の山登り
★★★:約1時間ほどの山登り







志津小学校横の城池

 現地の状況
 青地城は鎌倉時代から室町時代にかけて、この地域を治めた青地氏12代の居城で、小槻神社と志津小学校及び志津幼稚園の一帯を城域とし、至る所に土塁などの遺構を見ることができる。

 志津小学校裏手の高台には青地城主の墓石(宝匡印塔)が祀られている。この場所が青地城の本丸と考えられる。南側には東西に分厚い土塁が築かれている。
 小学校の正門横には城池と呼ばれている広大な池がある。
この池は用水池として使われたものだが、“城池”とよばれており、当時の堀を拡張したものではないか。


青地城主の墓

 城郭の歴史
 青地城は、鎌倉時代から室町時代にかけて地域を治めた青地氏12代の居城である。

 青地氏の祖先はこの地の豪族小槻氏から出ている。近江守護佐々木定綱の五男の馬淵城主・馬淵定広の四男左衛門尉基綱が青地氏の養子となって定兼の後を継ぎ、その子河内守忠綱が初めて青地城を築き城主となって、近江源氏七騎の一となった。

 永禄7年(1564)六角氏の命をうけ、青地氏11代目の青地伊予守茂高は平井加賀守、永原越前守とともに美濃に入り、織田信長を助けて稲葉山城の斎藤竜興を攻め滅ぼしたが、元亀元年(1570)宇佐山城で戦死した。
               、
 茂高の跡を継いで伊豆守高直が家督を継いだが、天正元年(1573)織田信長の六角氏討伐時には、多年の六角氏への恩義のため信長につかず、青地城を去ったため城は廃城となった。

青地城の土塁
青地城の土塁
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青地氏関連史跡
明福寺
京都市中京区御池通堺町東入御所八幡町238

 青地城主・青地左衛門尉頼賢が晩年に本願寺第8代蓮如上人に帰依し出家。文明12年(1480)野洲郡矢島庄(現守山市矢島町)に蓮如上人から染筆六字の名号を貰い、一宇を建立し道場とした。
 その後、頼賢から4代目の領主の弟・浄祐が慶長4年(1599)2月京都の三条坊門万里小路に寺基を移し一宇を建立したのが明福寺の開基となった。
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観 光
草津本陣(国指定史跡)
草津市草津一丁目2番8号
 東海道五十三次のうち、江戸から数えて52番目の宿場町。東海道と中山道の分岐点として栄えた。現存する本陣としては国内最大規模。
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草津宿
 覚善寺の山門前に東海道と中山道の分岐・合流点であることを示す道標が建てられている。
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 覚善寺と草津本陣との間の高札場にも道標がある。
こちらの石碑には、「右東海道いせみち 左中山道美のじ」と標されている。