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野間大坊・大御堂寺

 野間大坊の大御堂寺には、織田信長の三男・織田信孝の墓があります。
織田信長の死後、美濃を領し岐阜城の城主となった織田信孝(神戸信孝)は、柴田勝家、滝川一益等と共に秀吉に対し共同戦線を張りますが、天正11年(1583)羽柴秀吉によって岐阜城を攻められ、この野間の地で切腹をさせられています。

野間大坊

 天武天皇の時、役行者が草創、聖武天皇の時、行基菩薩が再び開基し阿弥陀三尊を守置し阿弥陀寺と称えた。
 弘法大師は当時に留錫一千座の護摩供養を修し鎮護国家を祈った。白河天皇の永暦年間一山を再建して勅願寺とし大御堂寺と命名された。親筆の金字の妙典八軸を納められた。
 源義朝公憤死の地で境内に墓がある。また縁結びの弁財天が良縁が授かる。
 建久元年(1190)源頼朝公により、守本尊開運延命地蔵菩薩を奉納された。守本尊は定期仏師作ではじめ平清盛の母池の禅尼の稔侍仏出会った。
頼朝13歳の時、平治の乱に敗れて捕らえられ、池の禅尼命乞いによって助けられ後に、添加を納めることが出来た。
その時、禅尼地蔵尊を頼朝公に与え、公は父の廟参の時当寺に納めた、なお頼朝公相伝の延寿の秘法が当山に伝わっている。
現地案内板より

大御堂寺本堂
大御堂寺本堂


源義朝公の墓

源義朝公の墓
源義朝公の墓
 源氏の総帥左馬頭義朝公は京都六波羅合戦に敗れ東国へ向かわれる途中、此地の野間田上の御湯殿で家臣長田忠政のために御入浴中謀殺なされし時、「我に小太刀の一本なりともあれば」と悲痛な一言を残されて最後を遂げられましたので、その慰霊のために小太刀を献ずる習わしができて山のように積まれています。
現地案内板より
 案内板に書かれているように、義朝公の墓には、小太刀を模した50cmほどの木が山のように積まれていた。 義朝公の墓の背後には池の禅尼の墓もある。命を助けられた頼朝、若しくは頼朝の関係者が建てたものではないだろうか。
 このほか大御堂寺には義朝公の首級を洗ったとされる血の池や、後年に頼朝が寄進した大門(建久元年)が残されている。


 なお、義朝公が長田父子に襲撃された湯殿は、大御堂寺の東約1.5kmの法山寺の湯殿跡で伝源義朝公最期の地として町指定史跡に指定されている。
源義朝公が謀殺された湯殿跡
源義朝公が謀殺された湯殿跡(法山寺)


織田信孝公の墓

 織田信孝の墓は、小さな五輪等で源義朝の墓の隣にひっそりとあった。信孝の墓であることを示す案内板には、「織田三七郎信孝郷之墳墓」を記されていた。
 なお、墓は大御堂寺にあるが、実際に自刃したのは、大御堂寺の南200mほどのところにある安養寺である。

織田信孝の墓

織田信孝公の墓

【所在地】
愛知県知多郡美浜町野間東畠50
詳細位置はコチラ mapfan

【訪問日】2006年5月1日
【現地を訪れて】
 織田信孝が自害する際に詠んだ世辞の句、「昔より主をうつみの野間なれば、報いをまてや羽柴ちくぜん」を知ったときから、是非とも訪れたいと思っていた野間。
源義朝公の墓の横にあり、いかにも小さな五輪等が信孝の無念さを示しているような思いに駆られた。
 


−織田信孝関連の史跡−
神戸城
神戸信孝時代の居城
福蔵寺
信孝の菩提寺
安養寺
信孝自刃の地

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